メキシコ紀行    

昨年平成20年にはカンボジアのアンコールワット、エジプトを訪れた。そこで、インドの古代文明に触れてみようと考え、平成21年1月に予定していたが、ムンバイのテロが昨年の12月に勃発したので、急遽、マヤ文明のメキシコに変更した。メキシコには何時かは行ってみたいと思っていたが、思いのほか早く実現した。メキシコも暑いという印象があるので、平成21年1月17日から24日にかけて行くことにした。

1月17日(土)伊丹空港発8時30分のJALで羽田空港に向かい、リムジンバスに乗り、成田空港に行った。成田空港発14時55分のアエロメヒコ航空でメキシコシティに向かった。ところが、この航空機はメキシコの北のアメリカ合衆国との境界近くにあるティファナ空港で入国審査を行い、同じ航空機で、メキシコシティに15時15分頃到着した。飛行時間は成田ーティファナ間が10時間、ティファナーメキシコシティ間は3時間で、メキシコシティの東京に対しての時差は−15時間であるので、結局、移動に要した時間は約22時間と非常に長かった。この間に富士山の眺めが特に印象的であった。メキシコの人口は9800万人で国土の面積は日本の約5倍である。そして、メキシコの首都はメキシコシティで、メキシコシティの人口は約2000万人で、海抜2240mの高原の都市である。メキシコシティに降り立つと緯度的には台湾より少し南にあり、暑いはずだが、高原のため涼しく感じられた。ホテルには5時過ぎに到着した。現在のメキシコシティはアステカ帝国のアステカ人が紀元前中央高原の湖の中に作った水上都市国家ティノチティトランを起源とし、1519年にスペイン人が破壊して、その上に作ったもので、このため、当時の建造物は地盤沈下の影響を強く受けている。実際、中央広場のカテドラルは地盤沈下のため修復が繰り返され、場所によっては道路が大きく波打っている所もあった。

*以下のすべての写真は画像のクリックにより拡大写真になります。

伊豆半島上空から左手南アルプス、右手富士山

眼下の富士山

ティファナ

メキシコシティ近郊

1月18日(日)朝8時半頃ホテルを出発し、メキシコシティ観光に出かけた。市内のメイン通であるレフォルマ大通を通りテンプロ・マヨール遺跡に向かった。レフォルマ大通の五つほどの大きな交叉点にはモニュメントが置かれており、このあたりは近代的なオフィス街である。しかし、目立つ大きな高層ビルは少なかった。テンプロ・マヨール遺跡はソロカ広場の北東角のはずれにある。ソロカ広場(中央広場)の北側にはカテドラル、東側には国立宮殿(大統領官邸)、西側にはマジェスティックホテル、南側には連邦区庁舎が建っている。まず、カテドラルを訪れた。カテドラルは1573年に起工され、1813年に完工したもので、特別大きいものではなかったが、重厚な造りで、内部はやはり荘厳さが満ちていた。中で洗礼を待っている白い帽子白い服を着たかわいい幼児の姿もあった。次いで、テンプロ・マヨール遺跡に行った。ここは現在のメキシコシティーの地下に眠るアステカ帝国の水上都市国家ティノチティトランの中心部だった。 スペイン人が来たころにはすでにこの遺跡のほとんどが破壊しており、その石を使ってカテドラルや国立宮殿が作られた。現在はこの遺跡の基盤部分しか残っていないが、ピラミッドは模型が示すように内部に3重のピラミッドがあり、小さいものから順に大きく立て替えられていることが解る。また、アステカ帝国の特徴であるチャック・モール(いけにえの心臓を納める仰向けになった像)がある。遺跡の傍には余り大きくはないが、遺跡から発掘されたものを展示するテンプロ・マヨール博物館があった。模型はこの博物館に展示されていた。この後、50kmほど離れたところにあるテオティワカン遺跡に向かった。メキシコの遺跡は石灰岩から作られているため、細工はしやすいが、風化に対して非常に弱いため、保存が非常に難しい。

レフォルマ大通り(フィオナの噴水)

 

 

レフォルマ大通り独立記念塔

メキシコシティの街角

アラメダ公園内のメキシコ近代化の父、ベニト・ファレスの記念碑

国立芸術院宮殿  

ラテンアメリカタワー(高さ176.5m)

ソロカ(中央広場)の北のカテドラル右手は国立宮殿

カテドラル内 

カテドラル内

テンプロ・マヨールの入り口のアステカ帝国の都の地図模型

水上都市の都心部にこの模型のような建造物があった

左の模型の中心の4層のピラミッド模型で内部には三重のピラミッドがある。

ンプロ・マイヨール遺跡

チャックモール

階段が幾重にもなっているのが分かる。

 

市の街角

丘の上のスラム街

テオティワカン遺跡へ行く途中の丘の方にはびっしりとスラム街が軒を連ねていた。また、今は寒さのためではなく乾期のために草が枯れており、木も枯れているものもあったが、多くの木は青々していた。メキシコの北部や中央高原は雨量が少ないので、サボテンを見ることを期待していたが、都市部ではあまり見ることは出来なかった。このテオティワカン遺跡まで来るとサボテン畑があり、みやげもの店ではテキーラの試飲やテキーラの素となるリュウゼツランの説明などがなされていた。この遺跡は中央高原にやってきたアステカ人がすでに廃墟となっていた都市遺跡を発見し、これを神々の住む神聖な場所「テオティワカン」と呼んだことによる。この都市は紀元前150から300年のものとされており、海抜2000mの高原にあり、当時20万人を起こす大都市であったとされている。この遺跡は北緯19.5度に位置し、5月19日と7月25日の正午に太陽がピラミッドの真上に来るとのことである。ここには大きなピラミッドが2基あり、北側に月のピラミッドがあり、このピラミッドの南側にアステカ人が発見した時に道の両サイドに小山がいくつも並んでいるのを墓と思い「死者の道」と呼んだ道路が南北に幅45m長さ4kmで通っており、この道を1kmほど南に離れた東側にメキシコ第2番目に大きい太陽のピラミッドがある。我々ははじめ月のピラミッドに行く手前に小さな遺跡、ジャガーの神殿とケツァルパパロトルの宮殿を見学した。ジャガーの神殿には羽飾りの付いたホラガイを吹いているジャガーの壁画があった。そして、ケツァルパパロトルの宮殿は聖職者の住居で、中庭の柱には霊鳥ケツァルと蝶が組み合わさった神話上の動物ケツァルパパロトルのレリーフがあった。この後、月のピラミッドに行った。このつきのピラミッドは高さ47m、底辺140m×150mのものである。このピラミッドは頂上まで登る事は禁止されており、途中までしか登れなかった。階段は奥行きが狭く急勾配で、特に下りが、降り辛かった。次いで、死者の道を通り、太陽のピラミッドに行った。太陽のピラミッドは高さ65m、底辺222m×225mと大きい。このピラミッドは頂上まで登ることが許可されていたので頂上まで248段の急傾斜の階段を登った。頂上からの眺めは非常に良くこの都市遺跡の全貌が捉えられた。この後、メキシコシティに戻り、国立人類学博物館を見学した。ここには多くの古代の文化遺産と民俗学研究の成果や資料が展示されている。時間も限られているため、ガイドに従って一部の展示を見学するにとどまった。この後、一旦ホテルに帰り、食事後、ラテンアメリカタワーの展望台から夜景を楽しんだ。このタワー以外余り高層ビルがないので、見通しが良く、また、メキシコシティが非常に広いためネオンなどのカラフルさはないが満点の星空のように綺麗であった。残念ながら実際の星の輝きは下界に負けてしまいほとんど見えなかった。ホテルに帰ったのは夜の9時半頃となった。明日は3時半起きなので、睡眠が気になった。

丘の上のスラム街

サボテン畑

テキーラの素となるリュウゼツラン

ジャガーの神殿

ジャガーの神殿のジャガーの壁画

ケツァルパパロトルの宮殿の中庭

柱のケツァルパパロトルのレリーフ

テオティワカン遺跡の月のピラミッド

月のピラミッド中腹からの死者の道と太陽のピラミッド

太陽のピラミッド

太陽ピラミッドの頂上から(北)

太陽ピラミッドの頂上から(西)

太陽ピラミッドの頂上から(南)

樹木とサボテンとが交互に織りなしている

太陽ピラミッドの頂上から(東)

国立人類学博物館

中庭(貝のモニュメントとパピルスの池が見える)

 

太陽の石とアステカカレンダー(A.D.900−1521)

頭字体(右)と全身像による表記法(左)

チャク・モール(A.D.900−1200)

ヒスイの仮面

 

ラテンアメリカタワーからの夜景(1)

ラテンアメリカタワーからの夜景(2)

ラテンアメリカタワーからの夜景(3)

1月19日(月)ホテルを朝4時30分頃出発し飛行場に向かい、メキシコシティ発6時20分の飛行機に乗り、メリダに8時過ぎに到着した。メリダはユカタン半島の北側にある。そして、平地にあるため、日向は暑く、長袖のシャツで過ごせるほどであった。到着後、メリダから110km離れたウシュマル遺跡とカバー遺跡観光に出かけた。ウシュマル遺跡はAD200−1000に栄えた町で、遺跡としては南北800m、東西500mのジャングルの中にある。この中に、魔法使いが一晩で作ったとの伝説の「魔法使いのピラミッド」がある。このピラミッドは高さ36.5mで、土台は長方形の角が丸くなった形で、長さが73m、幅が36.5mで、他ではあまり見られない形状である。そして、「尼僧院」があり、ここは中庭を囲んで建物が建ち、たくさんの小部屋を持っているために尼僧院と呼ばれており、実際は宮殿であったのではないかと言われている。また、「総督の宮殿」がある。ここは大きな部屋があるので、このように呼ばれている。それぞれの建物にはいろいろな模様のモザイクで満たされており、写真に示すような切石のモザイクで作られた雨の神「チャック神」の顔も多くある。このチャック神は鼻が下に向いているため雨に感謝を示しているとのことである。また、大きな球技場がある。ここでは両壁からリングが出ており、このリングにボールを投げるような競技をしていたようである。ウシュマル遺跡の南東18km離れたところにカバー遺跡がある。この遺跡はA.D.900−1200のものである。この遺跡にはモザイク模様やモザイク化したチャック神などで壁面が覆われている仮面の神殿やあたかも二体の宇宙服を着た人物のような彫像が壁面にある。そして、少しはなれたところで、凱旋門と呼ばれているものがある。これは、疑似アーチ型(持ち送り積み式アーチ、三角形アーチ)と言われるマヤ独特のアーチである。遺跡の観光後メリダに戻り、市内観光をした。まずは黄熱病の研究で1年間滞在した野口英雄の銅像がある病院に行った。この病院は現在は精神病院になっていた。意外に小さい銅像であった。ついで、16世紀に建てられたカテドラルに行った。大きなキリスト像が目に付いた。メリダは1542年スペイン人入植者フランシスコ・デ・モンテホによって、都市が開かれた。中央広場(ソカロ)の南側にはこのモンテホの宮殿が残されている。

ポポカテペトル山(5452m)(右)イヒタキウアトル山(5286m)(左)

ピコ・デ・オリサバ山(5610m)

メリダ上空

魔法使いのピラミッド

魔法使いのピラミッドの側面

尼僧院

チャック神(雨の神)の顔(鼻の先が下に下がっているので雨に感謝している) 

総督の宮殿

球技場

この輪にボールを通して競技した

ピラミッド遠望

イグアナ

カバー遺跡

仮面の神殿 

チャック神の顔を形どる(丸いのが目、長く出ているのが鼻ほとんどが取れてしまっている)

カバー遺跡全貌

宇宙飛行士のような彫像 

凱旋門

オーラン病院(今は精神病院)の入り口にある野口英雄像

野口英雄像

  

カテドラル

 

火災前はこの中のキリスト像が正面にあった。火災の影響で黒のキリストと呼ばれている。

モンテホの宮殿

中央広場

1月20日(火)午前8時頃450km離れたリゾート地カンクンに向かって出発した。途中遺跡で有名なチチェン・イツアに寄る。カンクンまでの間はジャングルの中の高速道路のため樹木で道路の両側の視界が閉ざされ、バスは単調な道をひた走った。チチェン・イツア遺跡はA.D.300−1250年のものである。ここはユカタン半島の北部にあり、ユカタン半島のマヤ遺跡の中では最大で華麗な遺跡と言われており、メキシコ湾沿岸地方から850年頃この地入ってきたマヤ系イツア人が繁栄に大きな役割を果たしたとのことである。チチェン・イツアは「イツアの泉の湧くところ」という意味である。実際に直径60mの生贄の泉(水が枯れぬことを願って生贄が投げ込まれた)と呼ばれる泉(セノーテ)がある。セノーテは雨が石灰岩の土壌に染み込み地中に水が溜まり、陥没した部分が泉になったものである。この遺跡でまず目に付くのはピラミッドである。このピラミッドは形状は高さ24m、底辺が1辺59mの綺麗な四角錐で頂上には神殿がある。このピラミッドはカスティーヨ(城塞)とも呼ばれ、全体が暦として設計されている。4面にそれぞれ階段があり、階段の合計が364段あり、神殿の1段を加えると太陽暦の365日になる。マヤの太陽暦(ハアブ暦)は1ヶ月が20日で、18ヶ月から成り立っており、それに謂れは解らないが「不吉な日」とされる5日を加えて365日となっている。また、このピラミッドはククルカン(中央高原の羽毛のある蛇)のピラミッドとも呼ばれている。この理由は額の写真で示されているように、春分と秋分の日に太陽の傾きにより側面(北側)の階段の側面に角錐斜辺の影が出来、階段の一番下のところの蛇の頭があるので、これとで階段の上から蛇が降りてきたような形状を作り出すことによる。そして、今見るピラミッドは最初に作られたピラミッドの上に作られているため写真のような2重構造になっている。次いで、戦士の神殿がある。これは3層の基壇を持つ神殿の周辺を、戦士の浮き彫りが施された石柱群が囲み「千本柱の神殿」とも呼ばれている。そして、階段を上りきったところにはチャック・モール像が横臥して、この上に心臓を置く生贄の儀式を行ったことを物語っている。次いで、球技場がある。球技場はウシュマル遺跡でもあったが、ここの方がさらに大きく、高さが8mほどの石壁に囲まれた、長さ146m、幅36mの球技場の中で行われた。両サイドの石壁の中央部に球を通したと思われる石の輪が取り付けられている。「フェゴ・デ・ペロタ」と呼ばれる、バスケットボールとテニスとを合わせたような競技が行われた。マヤ人の球技は、娯楽ではなく、神への祈りを捧げる宗教儀式であった。そのため、球技に勝ったチームの主将は、大変な名誉を獲て、首を切られ、神への供え物となったと言われている。(敗れたチームの主将の首が切られたという説もある)そして、これにより首を切られた選手の顔のレリーフがある。次いで、天文台エルカラコルがある。天文台の台座(基壇)は、真西から27.5度北に向いており、この方向は、金星が最も北に沈む方向である。また天体観測のドームには、観測用の3つの窓が残っている。南向きには真南を向く窓、西南方向には、月没の最北線を向く窓、西向きには、春分・秋分の日没と月没の最北線を正確に確認できる窓が造られている。この後、カンクンに向かった。カンクンに着く時間が丁度夕日が沈む頃であったので、バスより降りて、日没を眺めた。雲もなく綺麗な夕日を見ることが出来た。カンクンのリゾート地はカリブ海に面した砂州のようなもので、幅数百m、長さ20kmほどで、内陸側にはニチュプテ湖がある。この後、ホテルに入った。

ピラミッド

太陽の陰影により浮かび上がるククルカン

 

2重構造のピラミッド

戦士の神殿

戦士の神殿のチャック・モール

チャック神(鼻が上を向いているので雨乞いをしている)

 

球技場

 

レリーフ右サイドの神官と思われる人物によって首が切り落とされ、切り口から飛び散る血が6匹の蛇の姿で描かれている。     

ここにもイグアナ

 

首を切られた選手の顔のレリーフ

天文台

生贄の泉

カンクンのニチュプテ湖の向こうに沈む夕日

 

1月21日(水)朝観光出発前に少し時間があったので、ホテルの周りを散歩した。そして、いくつかの鳥に出くわせた。10時頃ホテルを出発し、120km南にあるトゥルム遺跡へ向かった。トゥルムはマヤ人によって建設されたのは700年から1000年頃で、その最盛期は1200年から1400年(後古典期)ごろであったとされている。トゥルムとは城壁という意味である。海側は5−6mの絶壁で、あとの3面は城壁によって囲まれている。このようにコロンブスが最初に目にしたマヤの都市と言う説がある。カリブ海に面しているため、遺跡の下の海岸は海水浴客で賑わっていた。トゥルム遺跡観光後、ホテルに帰り、自由時間があったので、ホテルの海岸側を少し散歩した。このとき、はじめて、野生のペリカンに出会った。ペリカンが急降下で海に飛び込む姿も見ることが出来た。

ピッツバーグ市

シッピングポート

風の神殿  

 

遺跡の下の海岸

神殿ピラミッド(エルカスティージョ)

小規模な神殿ピラミッド

またイグアナ

柱の家

 

ボート牽引によるハングライダー

ペリカン

ペリカンの急降下

カリブの朝

1月22日(木)朝9時朝食後、観光までには時間があったので、ホテルの周りを散歩した。アイアンだけで回るゴルフ場もあり、いくつかの鳥にも出会い、イグアナにもであった。午後13時頃ホテルを出発して、カンクンの空港に向かい、カンクン発17:30の航空機でメキシコシティに向かい、19:35に到着し、さらにメキシコシティ発21:55の飛行機で中継地ティファナ23:25に到着した。1月23日(金)そして、ティファナを所定の1:20より60分遅れで出発し成田空港に向かった。

1月24日(土)実際には6:45着の30分後に到着した。この後、伊丹空港より2時くらいに帰宅した。

今回のメキシコ旅行は成田発でもあり、往復に非常に時間はかかり、水は石灰質が強いため、はみがき時にもボトルのミネラルウオータを使用したが、衛生面には余り心配はなかった。通貨も米ドルで済ますことが出来た。そして、遺跡めぐりは楽しかったので、全般的には印象の良い旅行であった。

またもイグアナ

広告飛行

コンベンションセンンター付近の海岸

コンベンションセンンター付近

伊豆半島

 

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