エジプト紀行    

古代文明発祥の地の一つであるエジプトへは以前から行きたいと思っていた。そして、平成18年の2月に行こうと考え、旅行社に申し込んだら、案内パンフレットに一枚の外務省の渡航注意書が入っており、エジプト旅行においては治安などに注意する必要があることが書いてあったので、不安を感じ、申し込みを取り消し、スペイン・オランダ旅行に切り換えた経緯があった。しかし、いつまでも治安問題に不安を感じ、実行しないのもつまらないと考え、今回旅行社に申し込んだところ以前のような渡航注意書がなかったので、平成20年2月24日(日)〜3月2日(日)にかけて8日間のエジプト旅行を実行した。

2月24日(日)関西空港からエジプト航空で24日午前14時10分に出発し、7時間の時差のあるカイロ空港に21時10分に到着した。そして、カイロ空港からさらに22時55分頃ルクソールに向け出発し、午前0時頃到着し、ホテルに午前1時過ぎにチェックインした。就寝は午前2時になった。ルクソールはカイロの南670kmにあり、古代エジプトの首都テーベの一部で、紀元前2100年 から750年まで宮殿都市として栄えた。アメン信仰の発祥の地として多くの壮大な神殿や王墓が造られた。現在の人口は約15万人くらいである。ナイル川の東岸は生活域として使われホテルをはじめとして多くの施設がある。西岸はかつては墓地として使われていたため農地しかない。そして、東岸と西岸は南9km離れたところの橋で結ばれている。

*以下のすべての写真は画像のクリックにより拡大写真になります。

雪に覆われた山々

 

2月25日(月)朝8時頃ホテルを出発し、ルクソール西岸観光に出かけた。ルクソールは暑いのではないかと危惧していたが、思いのほか今の季節はすがすがしい気候で、朝は長袖シャツに薄いウインドーブレイカを羽織っても良いくらいであった。ホテルの前などにはブーゲンビリアが多く咲いていた。ホテルは東岸にあり、東岸に沿った道を少し南下し、橋を渡り、再び、少し北上して、まずは王家の谷に向った。ルクソールはほとんど雨が降らないため途中に見られる農家などの住宅は壁が日干し煉瓦で、屋根は日本のようなはっきりとした屋根ではなく、ナツメヤシなどの葉っぱで覆われているだけで、空が直接見えるのではないかと思える程度である。そして、いろいろな野菜が植えられているようであるが、非常に目立つのはナツメヤシの林である。ナツメヤシは非常に役に立つ植物で、葉は屋根材などに、幹は木材として、実は食用に使われ、すべてが有効利用されている。東岸を南下途中ルクソール神殿も眺めることが出来た。そして、右に眺めるナイル川はゆったりと流れている。ルクソール西岸には長く連なった木もない荒涼とした山々で、東岸からも小さくハトシェプスト女王葬祭殿が山の裾野近くに眺められた。

王家の谷はハトシェプスト女王葬祭殿を左に見て少し北上し、山を少し登り、回りこんだ裏側の涸れ谷にある。観光バスは谷の少し手前で駐車して、シャトルバスに乗り換えて10分もかからない程度のところである。王家の谷という名称は、ヒエログリフを解読し、古代エジプト史の扉を開けた功績者、フランス人考古学者ジャン・フランソワ・シャンポリオンであると言われている。その名の通りこの涸れ谷には新王国時代500年を彩ったあらゆる世代の王たちが埋葬されている。王家の谷は東の谷と西の谷に分かれており、東の谷に58基、西の谷に4基の合計62基が現在のところ確認されている。そして、62基目が1922年ホワード・カータによりに見つけられたツタンカーメン王の墓である。まず最初、ツタンカーメン王の墓を見学した。発見当時はこの墓はラムセス6世の墓の傍に小さく埋没していた。王家の谷においては撮影禁止であるため様子を案内パネルでしか見せられないが、非常に多くの見学者と共にゆっくりと歩いて見学した。中の棺までは余り長い道程ではなく、棺の部屋も小さいものであったが、今回はNHKのテレビで紹介されたようにツタンカーメンの黒く炭化したようなミイラが一番奥の部屋で棺の中に安置されており、全体がガラスにより囲われていた。そして、発見当時の盗掘をまぬがれた非常に多くの品物はここには何一つなく、最後の日に見学する予定のカイロ考古学博物館の2階に展示されている。壁画は約3300年前のものとは思えない彩色が施されていた。1枚の切符で、3つの墓を見学できるので、この後、ラムセス9世、ラムセス1世の墓を見学した。それぞれ、壁画のみしかなく、その割には見学者が非常に多いため時間がかかりすぎた。現在も、発掘作業を続けている人たちが遠くに望むことが出来た。また、いくつかの王の墓では修復作業も行われていた。この後ナイル川沿いにあるハトシェプスト女王葬祭殿に向った。葬祭殿にはここから1時間程度かけて山越えする人も見かけられた。

ブーゲンビリア  

ルクソール西岸  

ナイル川東岸から西岸への橋から北を望む 

東岸の民家 

西岸王家の谷の途中のハトシェプスト女王葬祭殿

王家の谷の案内図 

ツタンカーメンの墓の入り口 

nsw−bi.tj(nb−xpr.w−ra)sA ra (twt−anx−imn)

ツタンカーメンの墓の説明パネル、上部はヒエログリフによる名前

ツタンカーメンの墓の発掘時の説明 

ツタンカーメンの墓の発掘時の説明 

ラムセスT世の墓の説明パネル、下部はヒエログリフによる名前  

ラムセスT世の墓の入口 

王家の谷東側(この山の反対側にハトシェプスト女王葬祭殿がある) 

王家の谷西側(中央辺りで発掘作業の人たちが望める) 

ハトシェプスト女王葬祭殿へは駐車場から小さな電動車に引かれた客車に5分程度乗るのであるが、私は歩いた。結局皆が車を待っている間に葬祭殿前に着くことができた。このあたりの地名をディル・エル・バハリとも呼ばれている。これは北の修道院と言う意味とのことである。ハトシェプスト女王(在位BC1473−1458)は幼少の息子トトメス3世の王位を奪い、男性と称して自らをファラオと名乗った。そして、この葬祭殿を建造した。そのため、ハトシェプストの死後、トトメス3世はこの葬祭殿からハトシェプストの肖像や名前を抹殺した。このため壁画の顔の部分だけが剥ぎ取られたり、ハトシェプストのヒエログリフの王名をことごとく消した。しかし、破壊された像は修復されカイロ考古学博物館にある。葬祭殿は岸壁の下に3段階のテラスからなり、第1テラスは約90m*90mでその上の第2テラスが約75m*75mで、その上の第3テラスが40m*30mの広さを持った堂々とした佇まいで、優美な建物である。そして、第3テラスの柱にはいくつかは破損しているが9体のハトシェプスト女王の立像があり、ハトシェプスト女王の権威を誇示していた。この立像でもファラオのひげたくわえた顔である。この場所で1997年イスラム過激派による襲撃事件があり、日本人10名を含む62名が亡くなった。その当時は観光客が激減し、エジプト収入源の第2番目の観光産業に大打撃を与えた。現在は各観光地にはライフルを持った警官があちこちに配置されていた。この葬祭殿の南隣には第11王朝の4番目の王としてBC2007年に即位したメンチュヘテプ2世の葬祭殿跡があり、更に奥にはトトメス3世の神殿があるが観光はしなかった。

ついで、更に南にあるメムノンの巨像の観光に向った。メムノンの巨像は王の葬祭殿前に置かれていた高さ21mのアメンヘテプ3世の座像(在位BC1390−1352)の2体だけが残っている。この2体が相当痛んでいるので、現在修復中である。確かに非常に大きな貫禄のある坐像であるが、痛みがひどいので痛々しくも感じた。昼食後カルナック神殿に向った。

ハトシェプスト女王葬祭殿駐車場 

ハトシェプスト女王葬祭殿 

第3テラスのハトシェプスト女王立像

第1テラスの壁画 

第3テラス右奥   

第2テラスからのナイル方面の眺め  

メムノンの巨像 

カルナック神殿 

カルナック神殿はルクソールの北3km程の所にあり、アメン大神殿  、ムート神殿 、コンス神殿 に分けられるが、通常観光客が訪れるのはアメン大神殿である。カルナック神殿はアメン信仰の発祥の地として中王国時代(BC2040年ー1786年)に建設がはじまり、その後の歴代のファラオが増築を行い、プトレマイオス朝時代(BC304年ー31年)に完成した。神殿への参道には聖獣羊の頭をした約40頭のスフィンクスが両側に並び、圧倒される巨大な塔門に始まり、大きな中庭、ついで、ラムセス2世の立像と第2塔門があり、門を通ると大迷路を思わせ、また、空を覆い尽くすような威圧感の、ヒエログリフで満たされた高さ21mの69本の石柱からなる大列柱室、列柱室を過ぎるとトトメス1世の高さ22mのオベリスク、さらにハトシェプスト女王の高さ30mのオベリスク(エジプトで一番高い)、ハトシェプストの間、トトメス3世の祝祭殿と続く。この途中の所々にもセティ2世の小神殿、ラムセス3世の神殿などがある。オベリスクという名前はギリシャ語のオベリスコ「串」から付けられたとのことである。この神殿には倒れてしまったオベリスクがもう1本ある。神殿の広さは約600メートル平方の大きさである。

カルナック神殿の入口に並ぶアメン神の聖獣の牡羊像 

カルナック神殿(左)とルクソール神殿(右)の案内パネル 

ラムセス2世の像と第2塔門  

大列柱室  

大列柱室 

右のオベリスクはトトメス1世、左はハプシェプスト女王 

トトメス1世のオベリスク 

ハプシェプスト女王のオベリスク 

ルクソール神殿へ通じる 

香水瓶作り 

香水瓶 

ルクソール神殿  

昼食後香水瓶加工店に寄り、ルクソール神殿に向った。

ルクソール神殿はカルナック神殿のアメン大神殿の付属神殿として建てられた。そのためかカルナック神殿から南に3kmのスフィンクス参道(ネクタネポ1世による)により結ばれていた(現在は100m程度)。ルクソール神殿はカルナック神殿と比べると小さい。スフィンクス参道に次いで第1塔門の前の左手にはラムセス2世による高さ25mのオベリスクが1本あり、右手には19世紀にフランスにより持ち去られたオベリスク(現在コンコルド広場)の台座があり、その後に高さ25mの堂々としたラムセス2世の坐像ある。第1塔門を過ぎるとラムセス2世の中庭があり、これに続いてアメンヘテプス3世による高さ16m、14本の大列柱室、アメンヘテプス3世の中庭、アレキサンダ大王の間がある。そして、この神殿には入口近くのラムセス2世の中庭の一部にモスクが建てられていた。奇異に感じるが、イスラム教により、古代遺跡が蝕まれた歴史背景を物語ったものである。ここでは第1塔門前のオベリスク、ラムセス2世の坐像には感動したが、他はカルナックを観光した後なので、感動は小さかった。しかし、ここでは夕暮れからライトアップされたので、幻想的な神殿を味わうことが出来た。

オベリスクとラムセス2世坐像と塔門 

ラムセス2世の中庭から大列柱室を望む 

 ラムセス2世中庭 

ライトアップされた大列柱 

ライトアップされたオベリスクとラムセス2世坐像、塔門 

神殿入口に並ぶライトアップされたスフィンクス像

2月26日(火)快晴ですがすがしい早朝ルクソールを出発し、ナイル川沿いを南下し、110km離れたエドフに向った。長距離観光バスの運行の時は警官が乗った自動車による先導か、バスに直接ライフルを持った警官が同乗するかで、今回はエドフまでは自動車による先導で、その後は警官の同乗であった。このようなことは観光を重視している表れかもしれないが、裏を返せば政情不安の表れかと勘繰らざるを得ない、心の底では不気味さを持ちつつ旅をした。そして、町の境界には簡易検問所らしきところがあり、写真のような警備がなされていた。エドフに着くとホルス神殿を観光した。エドフはナイル川西岸にある。

ホルス神殿はプトレマイオス朝時代(BC306−30)にハヤブサの神ホルス神に捧げられた神殿である。この神殿の建物はファラオ時代とギリシャの建築様式を取り入れたもので、エジプトの神殿で最も美しい神殿の一つで、カルナック神殿に次ぎ2番目の大きな神殿である。高さ36m、幅137mの立派な塔門があり、その前に塔門の大きさには似合わない小さな一対のホルス像がある。傍の丘には市民の住居があり、1880年に考古学者マリオットに発見されるまではこの神殿に一般の市民が住んでいたようで、神殿の中には火事で黒焦げている場所もあった。神殿はヒエログリフやレリーフで満ちていた。昼食後更に約60km南に離れたコム・オンボに向った。途中には緑豊かな農園、さとうきび畑、バナナ畑、ナツメヤシ林などが目を楽しませてくれた。

農村風景

ホルス神殿駐車場での警備(警備の方法はどこでも同じ)

ホルス神殿 

神殿入口 

入口のホルス像   

神殿中庭  

中庭のホルス像 

住居の火事による黒こげ跡 

レリーフで満たされた至聖所(石の船) 

露天市場 

サトウキビ集積場  

コム・オンボ神殿 

コム・オンボ神殿はナイル川の東岸の岸辺にある。傍にはナイルクルーズの船が停船していた。この神殿はプトレオマイオス朝時代、ローマ時代に建造されたハヤブサの神であるハロエリス神とワニの神であるセベク神に捧げられた神殿である。このため、左の壁面にはホルスの顔のレリーフがあり、右の壁面にはワニの顔のレリーフがある。また、この神殿の壁のレリーフには外科用の器具、歯の治療器具、さらにはカレンダのレリーフなどが刻まれている。そして、ハトホル神礼拝堂には3匹のワニのミイラが展示されていた。ワニのミイラは皮が硬いので、埃は被っているが2000年も前のもののようには見えず新しいもののようであった。この後、更に35km南に離れたアスワンに向った。

列柱室  

お産のレリーフ 

現地の子供たちの神殿見学 

オベリスクの石切り場  

アスワンではまずオベリスク石切り場を観光した。今ではアスワンの町の中にあり、石切り場の花崗岩の非常に大きな塊が一部に押し込められたように見えるくらい住居に囲まれていた。いくつかの割れ目が生じたためにオベリスクとして造り出されずに、そのまま放置されたオべリスクや削り取られた多くの花崗岩見ると、古代の石切り場が目に見えるようであった。この後、上流にある1902年に建設された旧アスワンダムを通り、更に上流のアスワン・ハイダムに向った。アスワン・ハイダムは1970年に完成した。ダムの高さは平均111m、全長3600mあり、毎年のように起こっていたナイル川の氾濫を防止するとともに、12基の水力発電装置が210万kwの電力を供給している。そして、この傍には完成記念モニュメントが建てられている。貯水湖はナセル湖と呼ばれ、500kmの距離がある。ダム上からのナセル湖は青々とした非常に広大なすばらしい眺めであった。この後はアスワンに戻り、ナイル川の中洲ピラミサイシスアイランドにあるホテルまでファルーカ(帆掛け船)に乗り、心地よい風に乗ってゆったりとナイル川セイリングを楽しんで渡った。非常に多くのファルーカが行き交っていた。

放棄された42mのオベリスク(所々にクラックがある) 

旧アスワンダム下流側  

旧アスワンダム流水口 

旧アスワンダム貯水湖(フィエラ島からアギルキア島に移設されたイシス女神信仰の総本山のイシス神殿) 

アスワン・ハイダムモニュメント 

アスワン・ハイダムより下流側(アスワンダム側)を望む

アスワン・ハイダムの下流側の東側の発電所側 

アスワン・ハイダムのナセル湖東側 

アスワン・ハイダムのナセル湖西側

ナイル川のファルーカ(帆掛け船)

中州のホテルへのセイリング(アガサクリスティが泊まったホテル)  

ファルーカ船上  

ファルーカから上流側を望む 

ファルーカから中州の泊まりのホテルを望む 

2月27日(水)早朝アスワン空港に向かい、9時15分出発し、9時50分にアブシンベルに到着した。そして、バスでアブ・シンベル神殿の観光に向った。アブ・シンベル大神殿はアスワンの南280kmの所にあり、新王国時代にラムセス2世によって建造された岩窟神殿である。ナセル湖の水位が上昇するため、ナイル川川辺から移設したので神殿の裏側は盛り土で丘が形成されている。神殿はこれを右から回りこんでナセル湖側に行く。この神殿は元の位置から180m移動し、高さにして80m高い位置になっている。正面のラムセス2世の4体の坐像は高さ33m、幅33mの岩を削り作られており、像の高さは20mある。像の上にはファラオラムセス2世の名前がヒエログリフで左右に書かれ、更にその上にはヒヒの列が刻まれている。そして、王家の家族の小さな像が足元に刻まれている。そして、内部の撮影が現在では禁止されているが、外からデジカメで内部を撮ったものを掲載しているが、大列柱室では左右8本の柱があり、オシリス神の姿をしたラムセス2世の像が刻まれており、天井は星の模様で飾られている。そして、壁面には軍隊の勇敢な活躍を描いている。更に、小さい方の列柱室は4本の四角い柱に神に供物を捧げるラムセス2世のレリーフが刻まれており、最も奥の至聖所にはラー・ホラクティ神、プタハ神、アメン神、ラムセス2世の4体の坐像がある。この至聖所の奥に10月22日と2月22日の2日だけ太陽が差し込みラー・ホラクティ神以外の3体に光が当たる神秘的なことが起こる。さらに、アブ・シンベル大神殿の北50mのところにアブ・シンベル小神殿がある。アブ・シンベル小神殿(ネフェルタリ神殿)はラムセス2世の妻、ネフェルタリ王妃のため、愛と美の女神であるハトホルを称えて造られた。正面には4体のファラオ立像と2体の王妃の立像があり、内部のホールにはハトホル女神が彫られた6本の柱がある。壁面はラー・ハラクティ神とアメン・ラー神の前で敵を懲らしめるラムセス2世が描かれている。同じような彫刻のあるホールから更に奥にはハトホル女神像のある礼拝堂がある。これ等はルクソールでの神殿とは大きく異なっており、移設の意義は大きいと思った。しかし、本来の岩窟神殿とは異なり、すべてが現在の作り物のようにも思え、複雑な思いの籠る神殿であった。

アブシンベルの大岩窟神殿の裏側 

ナセル湖  

丘の正面、ラムセス2世の4体の巨座像 

入口の巨像の側壁(ラムセス2世のヒエログリフの名がある).左のカルトゥーシュがラムセスの名前を示す.左から読む.以下のローマ字になる。nsw−bi.tj(wsr−mAa.t−ra stpーn−ra)sA ra(mrj−imn ra−ms−sw) 

ヒエログリフのアルファベット変換

入口付近から内部の立像を望む

右側の立像 

小神殿  

小神殿側から両神殿を望む 

大神殿の裏側から小神殿の裏側を望む     

飛行機からの旧アスワン・ダム 

アブ・シンベル神殿観光後、アブ・シンベル空港に行き13時35分出発し、カイロに15時15分頃到着した。この間の飛行機からの下界の眺めは幸運にも旧アスワン・ダムを眺めることが出来た。空から眺めるとナイル川沿いのみ緑の帯があり、それより外れると荒涼としたサハラ砂漠である。ガイドによるとサハラは砂漠という意味とのことである。カイロに近づくにしたがって、紅海の帯状の海をはるか向こうに見ることが出来た。また、カイロに近づいて、注意深く探していると幸運にも赤ピラミッドと階段ピラミッドを見つけることが出来た。少し、興奮を覚えた。カイロに到着後ホテルへと向う途中パピルス専門店に立ち寄った。パピルスに描かれた絵のギャラリーがあり、絵画の販売をしていたが、私はB4サイズのパピルスのみを6枚ほど買った。帰ってからこれに絵を描くのは何時になるか分からないが。バスの中からの眺めで、目に付いたのは高層の綺麗なマンションも沢山あるが、高架の自動車道から見下ろした時、非常に荒れた住宅も沢山目に付いた。このことからも格差の大きさを垣間見るようである。ホテルにチェックインしてナイル川を見下ろす部屋で一休みした後、ピラミッドのライトアップが見えるレストランに向った。夕食後レストランの屋上からあまり明るくはないが、ライトアップされたピラミッドを眺めることが出来た。明日はピラミッドづくしである。カイロはエジプトの首都で、人口は1500万人である。そして、エジプトの人口は7400万人で、その9割がナイル川沿いに住んでいる。エジプトはナイル川沿いの細長い砂漠の中の緑の島のようである。

どこの都市(?)

写真の上部に紅海(?)を望む

カイロ上空(?) 

赤いピラミッド 

階段ピラミッド 

カイロ市内のマンション 

カイロ市内の住宅  

カイロ駅 

レストランからライトアップのクフ王のピラミッド 

   

ホテルから夜のナイル川を望む 

朝もやのナイル川を望む.左の塔はカイロタワー(187m) 

2月28日(木)朝8時頃ホテルを出発し、30km離れたギザに向った。ギザで最初に見えたのはクフ王のピラミッドである。このピラミッドはBC2560年クフ王( BC2589−2566頃 )によって造られた。世界で最大のピラミッドで、建造当初は高さが146mあった。しかし、現在では頂上部分が崩壊していることから137mになっている。そして、一辺は230m(現在は220m)で、傾斜角は51.50度の四角錘である。重さ2.5トンの石灰岩のブロックが230万個使われているとのことである。今回、我々はクフ王のピラミッドの中の玄室まで入った。玄室までの通路は距離は当然余りないが、勾配がきつい登りの細い通路で、人がやっとすれ違うことができる幅で、ほとんどが屈んで歩かないと頭を打つ高さの通路であった。玄室は広い空間で、中には石棺のようなものがあるだけであった。この後、カフラー王のピラミッドの傍を通り、メンカフラー王のピラミッドの近くで、3つのピラミッドが良く見える第1パノラマ地点に行った。二番目のカフラー王(BC2558−2532頃) のピラミッドは高さ144m(現在は136m)で、一辺が215mで勾配が53.10度で、頂上部分には石灰石の化粧石が残っている。クフ王のピラミッドよりほんの少し小さいだけである。三番目メンカフラー王(BC2532−2503)のピラミッドは相当小さく高さ66.5mで、一辺が108mである。さらに第2パノラマ地点に行った。ここでは我々のグループの仲間でらくだに乗るものもいた。私はかつで敦煌でらくだに乗ったことがあり、あまり興味がなかったので乗らなかった。やはり、ピラミッドにはらくだが似合うようだ。実際、ピラミッドの傍に来てみると四角錘の美しさを感じるより大きさに圧倒される。かえって、少し、遠くから眺める方が形の美しさを強く感じる。砂漠と3つの四角錘と青い空は心に残る。ついで、スフィンクスを観光した。スフィンクスはカフラー王に近いナイル川よりにある。スフィンクスを見に入る前に河岸神殿跡を通り抜けて行った。この神殿はスフィンクスと同じ石が使われているとのことであるが詳しいことは分からない。この神殿にはヒエログリフのような言葉は全然ないのでこのような言葉がなかった時代なのか。スフィンクスは高さ20m、長さ73mで、ピラミッドが造られるより以前にすでに造られていたようである。これほど大きいものはないがエジプトの多くのスフィンクスは体はライオンで顔(頭)は山羊の形をしている。このことから、このスフィンクスも顔は山羊の形をしていたのをカフラー王の顔に彫り変えられたのではないかとのことである。鼻がないため少しおかしな顔であるが、大きくて見ごたえのあるものである。スフィンクス像という名称は、この像の本来の名前ではなく、真の名称は「ラー・ホルアクティ」という。この後、金・銀製品の店により、昼食後17km離れた一番古い町メンフィスに向った。

ピラミッドが近づく(クフ王とカフラー王のピラミッドが見える) 

クフ王のピラミッド    

カフラー王のピラミッド   

メンカフラー王のピラミッド  

らくだとメンカフラー王のピラミッド  

第1パノラマ地点から(左からメンカフラー王、カフラー王、クフ王のピラミッド、小さい3つのピラミッドは王妃のため)  

客を待つらくだ 

第2パノラマ地点(左からクフ王、カフラー王、メンカフラー王のピラミッド) 

スフィンクスとカフラー王のピラミッド  

スフィンクスとカフラー王とクフ王のピラミッド 

スフィンクスとクフ王のピラミッド     

パン屋さんの人だかり 

パン焼き 

肉屋さん  

肉屋さん  

 メンフィスのピラミッド 赤いピラミッド

まず、ギザのピラミッドの原型であるメンフィスの赤いピラミッドを観光した。このピラミッドは大ピラミッドを造ったクフ王の父であるスネフェル王(BC2613−2589)が造ったもので、一辺が220m、高さが99mで勾配が43度である。使用されている砂岩の色が少し赤いのでこの名前がついている。ここから10数km南のダハシュールにある屈折ピラミッドを見ることが出来た。このピラミッドもスネフェル王により造られたもので、屈折ピラミッドは、高さ101m、一辺189mで、その名の通り下の部分は急斜面で、途中で緩斜面に変更されて「屈折」している。これは当初の勾配のまま建設した場合に構造的にピラミッドが自重に耐えられなくなると判断されて設計変更したものと言われている。写真は望遠で撮ったものである。この後、ラムセス2世博物館に行った。ここは小さな博物館ではあるが、メインとしては野外の高さ4m、全長8mほどのトトメス王のアラバスター製のスフィンクスと倒れた状態で館内に保存されている15mのラムセス2世の立像である。ついで、すぐ近くのサッカラの階段ピラミッドに向った。階段ピラミッドはジョセル王BC2670年頃イムホテプに命じて王を埋葬するために造らせたもので、底辺は140m×118m、高さ60mで、使用された石は50cm×100cmと小さなもので、6段形式になっている。ただこのピラミッドは第3王朝期(BC2686−2613)に造られて以来、第5王朝期まで数回にわたって拡張され、現在の姿になっている。このそばに葬祭殿と神殿があり、ジョセル王複合体を形成している。複合体としての大きさは東西227m、南北545mで高さ10.4mの塀で囲まれている。列柱廊や神殿や礼拝堂などがある。これは世界最古の石造建築物である。この後、絨毯学校に寄った。この学校は小中学生くらいの子供が絨毯製作を学んでおり、即売もしている。この後の夕食ではナイル川ディナークルーズをした。両岸の光を見ながら、ショウを見ながら食事をして楽しんだ。

ダハシュールの屈折ピラミッド  

ラムセス2世博物館野外像 

ラムセス2世博物館  

ラムセス2世のスフィンクス  

ラムセス2世像頭部よりの全体像 

ラムセス2世頭部  

サッカラの古王国時代の神殿跡 

神殿内部(列柱廊)

神殿に隣接するジェゼル王の階段ピラミッド 

内側から列柱室を望む  

絨毯専門学校  小学校生程度の生徒実演 

絨毯展示  

民家の鳩小屋(穴の開いた円筒の小屋)  

ナイル川ディナークルーズショー  

ナイル川ディナークルーズショー  

ナイル川ディナークルーズショー  

ナイル川ディナークルーズショー   

カイロ駅ホーム   

2月29日(金)今朝も良い天気にめぐまれ、観光に出発した。今日の観光はカイロを8時15分発のディーゼル列車に乗り、北に208km離れたアレクサンドリアに11時20分頃あまり遅れずに着いた。エジプトの駅は改札は無く、列車内で切符を検札するのみである。車窓からはいろいろな風景を楽しむことができた。今日、金曜日と土曜日がエジプトでは学校が休みである。そのためか農園には子供が多く農業を手伝う風景を多く見た。アレキサンドリアはエジプト第2の都市で人口330万人である。このアレキサンドリア観光ではまず、カタコンベを訪れた。ここは、ローマを逃れたキリスト教徒が隠れ礼拝を行った螺旋階段による地下3階(100フィートの深さ)の2世紀に造られた墳墓である。写真機は持ち入ることも出来ない厳重なものであった。蛇のレリーフがある中央墓やソベク神とアヌビス神の像などがあり、実際の遺骨は無かったがボックスタイプに区切られた数多くの墓があった。これに次いで、ポンペイの柱を観光した。この柱は3世紀ディオクレティアヌス帝のために建てられた高さ25m、柱周り8mの赤色花崗岩の柱である。傍に聖牛が埋葬された地下室や3つのスフィンクスがある。アレクサンドリアの最後の観光はアレキサンドリア国立博物館である。ここは以前外国の領事館が入っていたところを改装して、2003年にオープンした。地下1階は古代エジプト時代、1階はグレコローマン時代、2階はコプト、イスラムに関する展示をしている。小さい博物館であるが、時間に余裕が無かったので、通り一遍に終わった。この後、遅めの昼食のためレストランに行ったが地中海の見える海岸沿いにあった。そして、店の前からカイトベイ要塞が見えた。この要塞はAD1500年頃スルタン カイト・ベイが要塞を作った。ここにはプトレマイオス朝(BC300年頃)高さ150mのファロスの灯台があったということである。

帰りはアレキサンドリアを15時45分に出発し、カイロに19時頃到着し、夕食後ホテルに帰った。帰りの車窓からは夕暮れの農村風景を見ることが出来た。

キオスク   

アレキサンドリア行きジーゼル列車   

オレンジ畑 

水路沿いに集まる白鷺(?)  

ロバに乗り牛と農場に向う人  

アレキサンドリアのマンション群 

アレキサンドリア駅  

昼の祈りのために集まる人々 

アヒル、鶏や鳩などを売る人  

露天市場  

ポンペイの柱  

    

入場券に載っている写真に近い撮り方 

一人でも祈っている人  

アレキサンドリア国立博物館 

その1

その2

その3   

その4  

その5

その6

その7

地中海とカイトベイ要塞   

アレキサンドリアのスポーツセンター 

アレキサンドリア駅

家路に着くロバ車  

水道橋   

3月1日(土)午前8時頃ホテルを出発し、アブ・セルガ教会に行った外から見ると教会らしき外観ではない。この教会はコプト教会で、かつて、聖家族(イエスキリスト、聖母マリア、ヨセフ)がエルサレムでのヘロド王から逃れ、エジプトに避難して来た時に住んだ洞窟の上に4世紀頃建てられたコプト教の教会である。中は落ち着いた雰囲気であるがいかにも古そうな小さな教会であった。コプト教は聖母マリア信仰とのことであり、ギリシャ正教のイコン信仰と同じようにキリストの偶像はなく壁画のみのようであった。次いで、エジプト考古学博物館の観光をした。開館時間に近かったためかもしれないが、入口での混雑は相当なものであった。博物館の中庭で、ビデオカメラ、デジカメなどの撮影機類は全て添乗員に預け、添乗員が事務所にまとめて預けてから持ち物チェックを受けて館内に入るという厳しいものであった。館内は1階と2階からなり、1階は50ほどのブースがあり、ここには先王朝時代(BC3200−2700)からグレコ・ローマン時代(BC332−30)のまさしくエジプト紀元前時代の遺跡の品の展示を行っており、2階はツタンカーメン関連遺品展示が半分以上を占め、他に宝石などの小物の遺品、壁画、装飾品などの展示、ミイラ展示(別に500エジプトポンドが必要)などである。時間にあまり余裕が無く、観光客で混雑していたため、じっくり見ることは出来なかったが、紀元前のエジプトの雰囲気は味わった。この博物館も手狭なため現在新しい博物館をピラミッドに近いところに建設中とのことである。王家の谷のツタンカーメンの小さな部屋から想像出来ないほどの多い遺品が展示されていたのには非常に驚いた。自分のカメラにこれ等を収められなかったのは非常に残念で、博物館内の販売本でお茶をにごした。この後、カイロ最大の市場ハーンハリーバザールの見物に行った。ここは幾筋もの狭い商店街からなっており、沢山の人出で賑わっており、1時間ほど多くの片言日本語の呼び込みの中をかいくぐりながら何の買い目的も無く見て回った。

カイロ発20時頃の飛行機に乗り、3月2日(日)昼の12時45頃関空に無事到着した。

今回の旅行は紀元前の世界遺産めぐりをしたが、やはり、古代文明のすばらしさに触れることが出来満足な旅であった。エジプトでは非常に過ごし易い時期でためか、観光客が非常に多いことにも驚いた。また、観光客を守るためかもしれないが、警官など警備をする人の数の多いのにも驚いたが、実際に事が起こった時に本当にこの多くの警備の人々が効率よく我々の安全を守ってくれるのであろうかと反面思った。私の今回の旅行で不愉快に思ったのはトイレでのチップの問題であった。空港でのトイレのチップをはじめとして観光地の汚いトイレでのチップの強要などがあったことである。今回の旅行は見て歩くところが多くあったためか、歳のためか案外疲れた。

アブ・セルガ教会(コプト教)への路地

アブ・セルガ教会前  

路地でパンを運ぶ人

国立考古学博物館

博物館前庭 9102

一階中央ギャラリ(カイロ考古博物館発行本より) 

村長カーアペル木像(BC2500)(カイロ考古博物館発行本より)

 

ニ階ツタンカーメン関連品ギャラリ(カイロ考古博物館発行本より)  

エジプト先史時代(紀元前5000年)の男性の頭部(テトラコッタ粘土) (カイロ考古博物館発行本より)  

BC4000のワニの装飾ボウル(カイロ考古博物館発行本より)  

ツタンカーメン(BC1356−1346)黄金マスク表(カイロ考古博物館発行本より) 

裏(カイロ考古博物館発行本より) 

ツタンカーメンの玉座(カイロ考古博物館発行本より)  

ツタンカーメンの内臓器官の棺(カイロ考古博物館発行本より) 

ツタンカーメンのカーの木像(カイロ考古博物館発行本より) 

ツタンカーメンの木製の犬(カイロ考古博物館資料より)  

ラムセス三世の戴冠像(花崗岩、BC1198−1166)(カイロ考古博物館発行本より)  

 

アクエンアテンの砂岩巨像(BC1372−1355)(カイロ考古博物館発行本より) 

一階中央正面のアメンヘテプ三世とティイ王妃の石灰岩坐像(高さ7m、幅4.4m)(BC1410−1372)(カイロ考古博物館発行本より)  

アテンの崇拝の場面の石灰岩パネル(カイロ考古博物館発行本より)   

トトメス三世の花崗岩坐像(BC1504−1452)(カイロ考古博物館発行本より)  

ハトシャプスト女王の頭部(石灰岩BC1502−1482)(カイロ考古博物館発行本より)   

ハトシェプストの赤花崗岩スフィンクス(カイロ考古博物館発行本より)

ひざまづくハトシェプストの像(赤花崗岩)(カイロ考古博物館発行本より) 

メンチュホテプ・ネブヘペトレ砂岩像(BC2061−2010)(カイロ考古博物館発行本より) 

ヘシレの木製パネル(BC2650)(カイロ考古博物館発行本より) 

カフラー王坐像(閃緑岩)(BC2576−2551)(カイロ考古博物館発行本より) 

ラーホテプとノフレトの石灰石坐像(BC2620)(カイロ考古博物館発行本より)   

メンカウラー王の三柱神(片岩、BC2551−2523)(カイロ考古博物館発行本より) 

象牙のクフ王坐像(BC2609−2584、高さ7.5、幅2.5cm)これ以外にはクフ王の遺品はない。(カイロ考古博物館発行本より)  

ジョセル王(石灰岩、BC2687−2668)(カイロ考古博物館発行本より) 

ハーンハリーバザール  

ハーンハリーバザール  

ハーンハリーバザール 

道路沿いの住宅

鳴門海峡  

 

                                                

                                                      上部へ      

HOME 趣味1(旅行) 趣味2(絵画他) 趣味3(陶芸) 徒然(電気雑記)

 

 

 

inserted by FC2 system