ギリシャ・トルコ紀行    

平成19年11月22日(木)〜12月1日(土)にかけて10日間でギリシャ・トルコを旅行した。ギリシャの歴史とトルコの自然を観光するのが今回の目的である。ただし、今回の旅行でギリシャに行く飛行機はカタール航空を使い中継点がカタールのドーハであるため、乗り継ぎ時間を利用して、約3時間のドーハ市内観光が予定されていた。

11月22日(木)、23日(金)関西空港から22日午後11時55分に出発し、カタールのドーハ(日本との時差6時間)に23日午前6時20分頃到着した。カタールは秋田県より少し狭いぐらいの国土で、人口は約74万人で、アラビア半島の南東に位置している。そして、ドーハはカタールの首都で人口の約半分が住んでいる。7時過ぎにドーハの市内観光に向った。カタールの気温は高いが、朝なので、ワイシャツを着ていれば、過ごせる気温であった。昼には30度くらいにはなるようだ。はじめに1994年のアメリカワールドカップアジア最終予選で日本vsイラン最終試合で試合終了間際で同点ゴールになり、総合成績でワールドカップに出場できなかった「ドーハの悲劇」で有名なサッカー球技場を観光した。球技場自体は日本のどこにでもあるような球技場で特別な思いも沸かなかった。途中には新しく建てられたと思える同じ形状の住宅が道路沿いに多く見受けられた。ついで、らくだや羊などの動物市場そして青物市場の観光に出かけた。買い手を待つ動物は囲いのなかに雑然と収容されていた。そして、砂漠の国ではあるが、青物市場には多くの種類の野菜や果物が大量にあった。これらの青物のほとんどは周辺国から輸入されているとのことである。更に、前回のアジア競技大会が開かれたメイン会場をはじめこれを取り囲んでいる施設を外部からのみ観光した。街のあちこちでは建築ラッシュのためか建築中の建物が目に付いた。特別な印象もなくドーハの街を急ぎ足で垣間見、午後12時30分発の航空機でギリシャのアテネに向かい午後16時25分頃着いた。この間上空から地上を眺めることが出来た。カタールをはじめアラビヤ半島の眺めはだだっ広い砂漠が続き単調なものであった。ただその中において細い道路が作り出す幾何学的模様はテレビでしか見ていないが南米のナスカの地上絵のようであった。そして、トルコ上空に来ると山岳地帯になり、雪を被った山々や深い渓谷のある山々を眺めて楽しむことが出来た。また、地中海に出るとトルコからギリシャまでいくつかの島々で繋がっているように見え、ギリシャの白い建物とエーゲ海で有名なミコノス島も眺めることが出来た。ギリシャの面積は日本の40%で、1100万人の国であり、非常に古い国で、神話で有名な国でもある。そして、この国の宗教は主にギリシャ正教である。

*以下のすべての写真は画像のクリックにより拡大写真になります。

サッカー球技場

住宅街

らくだ市場

野菜市場

前回のアジア大会メイン会場

 

対岸の中心街のビル群

上空からの砂漠の国カタール

上空からのトルコ南部

上空からのミコノス島

アテネに到着後市内観光のためバスに乗り込んだが、すでに辺りは暗くなっていた。アテネは300万人の人口である。夜の市街観光となり、最初に観光したのは1896年、第1回近代オリンピックの会場となったスタジアムであった。シンプルなたたずまいのスタンドがライトアップされていた。このスタンドを真正面にして、右手後方に小さくパルテノン宮殿がライトアップされて浮かんで見えていて幻想的であった。ついで、シンタグマ広場に行った。ここは1874年にギリシャ最初の憲法が発布されたところで、シンタグマ(憲法)広場と呼ばれており、ここに無名戦士の墓が建てられており、24時間二人の衛兵が立って1時間ごとに衛兵の交替があり、交替儀式が行われている。この墓の後方にオットー国王の宮殿として建てられたもので、現在国会議事堂として使われている建物がある。

第1回近代オリンピックスタジアム

ライトアップされたパルテノン宮殿遠望

シンタグマ広場の無名戦士の墓

キオスク

11月24日(土)朝8時頃ホテルを出発し、マラトンに向った。気温としては大阪とあまり変らないように思えた。アテネの街には小さい小屋の簡易売店(キオスク)が歩道上に多くあり、日本のJRのキオスクより多くいろいろな品物が売られていた。ここで、水のボトルを購入し、バスに乗り込んだ。丘陵地を通る高速道路からは良くアテネの街が見晴らせるが、朝早のためか朝もやでかすんでいた。辺りの山々はところどころ石灰岩が露出しているようで、なだらかな緑に白いぶつぶつのまだら模様の山である。マラトンへの途中オリーブの木が多く見かけられた。マラトンはアテネの北東にあり、約39kmほど離れた村で、ここで、紀元前490年にアテナイの軍がペルシャ軍を迎え撃ち、ギリシャが勝利した。この時のアテネ軍の塚を観光した。マラトン村ではキャベツなどの野菜、オリーブの木などの栽培が多く見受けられた。この後、マラトン博物館を見学した。ここではマラトンでの多くの出土品の展示がなされていた。ギリシャ全体ののミニ博物館のようで、製作程度の高い壷や皿などの生活雑記類、石の彫刻、レリーフ彫刻など時間があればデッサンをしたくなるようなものであった。さらに別棟に埋葬された墓塚もあり、人骨の傍に壷などの埋葬物が置かれていた。小さい博物館であったが楽しい博物館であった。

マラトンの戦いのアテネ塚

マラトン博物館その1

その2

その3

その4

国立考古学博物館

この後アテネに戻り、アテネ市街観光を行った。まず、国立考古学博物館を見学した。ここはギリシャ各地で出土した先史時代からローマ時代までの展示物を集めた博物館で非常に広い建物で黄金のマスクや多くの黄金物、陶器、立体彫刻、レリーフ彫刻、青銅彫刻、壁画など非常に多い展示品で興味深く見て回った。可能なら時間をかけてゆっくりと回りたかった。

展示物その1(ミケーネ文明の部屋:中央がドイツ人シュリーマンが発見したマスク)

展示物その2

その3

その4

その5

その6(中央:アルテミシオンのポセイドン;右:ミロス島の円盤)

その7

ハドリアヌスの門

ついで、ハドリアヌスの門に行った。この門は高さ18mで、紀元2世紀、ローマ皇帝ハドリアヌスにより建てられた。そして、当時の「古いアテネ」と「新しいアテネ」の境界に建てられた。この門の後ろ側に広がるのがゼウス神殿で、この神殿は紀元前515年に着工されたが、完成は紀元2世紀にハドリアヌスにより建てられ、かつては104本のコリンソス式の柱が並んでいたが、現在は15本だけ残されている。ほとんど在りし日を偲べる状態ではなかった。つづいてアクロポリスに行った。アクロポリスは丘の上の都市国家の意味を示すもので、標高156mで石灰岩からできている。この丘の上には多くの神殿があり、中心にパルテノン神殿がある。これはドーリス様式の最高峰と言われ、紀元前432年に建てられた。長さ69m、幅31m、高さ18mで、46本の柱からなっている。パルテノン神殿の向かいにはイオニア式神殿のエレクティオン神殿がある。ここには有名な6体の少女柱がある。アテネのほぼ中心にあり、360度の眺望が可能なリカピトスの丘が望める。アクロポリスの南の下に前6世紀に建てられたギリシャ最古の劇場が見ることができた。そして、この劇場の西側には紀元161年に大富豪ヘロディス・アティクスに寄贈された劇場がある。昼食後200kmほど離れた古代ギリシャ人が「地球のへそ」と考えたデルフィへ向った。そして、7時30分頃ホテルに着いた。

ゼウスの神殿

アクロポリス

アクロポリスからヘーファイステイオンを望む

パルテノン神殿

エレクティオン神殿

エレクティオン神殿の少女柱

リカピトスの丘295m

ゼウス神殿跡

ディオニソス劇場

ヘロディス・アティクス音楽堂

デルフィのホテルの前の街並み

オリーブ畑

11月25日(日)デルフィにはアポロンの神殿跡があるが、それらの観光はなく7時30分頃ホテルを出発し、260km離れたメテオラに向った。デルフィはコリント湾の北にそびえるパナッソス山(2457m)の南麓、パイドリアデス峡谷の急斜面にあり、これから下って行く途中の山間には非常に広いオリーブ畑が眺められた。途中日本の紅葉には色として及ばないが、道路沿いに紅葉を見ることが出来た。さらには豊かな畑が見渡せ、綿畑も多く点在していた。昼頃、奇岩の上のギリシャ正教の修道院で有名なメテオラに約4時間後着いた。メテオラに近づくと奇岩群の全貌が現れて来た。写真は帰りのバスの最後尾から撮ったものである。観光前にレストランで昼食摂った。昼食後、標高534mの岩の上にあるメガロ・メテオロン修道院に向った。地上から天に向って聳える岩岩の間を登っていった。途中、紅葉した木々を抜け、一番近いところにあるアギオス・ニコラウス修道院を眺め、ステファノス修道院を眺め、どんどん登っていき、最終に近いところで、373mの岩山にあるバルラーム修道院近くを通り、メガロ・メテオロン修道院に着いた。この修道院はメテオラで最大で、最も有名で、聖アナシウスによって1344年に開かれた。バスの到着場所から谷を隔てた岩の上に修道院があるため、谷近くに作られた石のアーチの橋まで階段を下り、橋を渡り、門をくぐり再び115mの絶壁の石階段を登り、修道院に到ることが出来る。入り口では修道士の心の乱れを招かぬように、女性は身体の線がはっきりと出ないようにロングスカートを穿いて入らなければならないので、入り口で、自前のものがない女性には貸し出されたいた。修道士らの谷を越える手段として写真の右端に見られるように、修道士らは谷の間に懸けられたロープに吊られた動力による籠に乗って行き来をしているようだ。ギリシャ正教は礼拝の対象はイコン(聖画像)のため、礼拝堂はイコンとキリストにまつわるフレスコ画が壁面を覆っている。礼拝堂の撮影は禁止されているが、他の場所は撮影可能であった。その一つを写真にしている。ここで、修行している修道士は現在では少なく4,5人とのことであった。ついで、少し下にあるバルラーム修道院を観光した。ここは、14世紀のなかばに最初にこの岩山に登り、生活を始めた隠者バルナームにちなでつけられた名前で、修道院としては1542年にテオファネスとネクタリウスにより創設された。メガロ・メテオロン修道院と同じようにイコンやフレスコ画により、壁面が装飾されていた。ここへは駐車場からは登りだけであるが、急な石階段を登っていく必要があった。両方の修道院においても同じことだが、世の東西を問わず、修行する人はきびしい自然に対峙して修行し、また、深い信仰の中から壁画を残すのだなと感慨を深くした。両修道院からの眺望がすばらし台地に突き刺さったような岩、遠くの紅葉した山、岩間から見える街などなかなか飽きない風景であった。

道路沿いの紅葉

綿畑

メテオラの奇岩群

レストラン近くからのメテオラ奇岩群、右端の岩の上にアギオス・ステファノス修道院?

アギオス・ニコラウス修道院

ルサノウ修道院

バルラーム修道院

メガロ・メテオロン修道院

メガロ・メテオロン修道院からバルラーム修道院を望む

メガロ・メテオロンの歴代の修道士のシャレコウベ

礼拝堂の外観

修道士の部屋内の壁画

バルラーム修道院礼拝堂

バルラーム修道院内部のイコン

バルラーム修道院からの紅葉の眺め

ルラーム修道院からルサノウ修道院を望む

テッサロニキのホワイトタワー

金角湾を望む

メテオラ観光後相当太陽が傾いてきていたが、この後230km離れたテッサロニキに向った。ギリシャ第二の都市テッサロニキに午後6時頃に着いた。テッサロニキは紀元前316年にこの都市を築いたマケドニアの王カッサンダーの妻の名前からきており、この王妃はアレキサンダー大王の妹である。このテッサロニキのシンボルで、ライトアップされているホワイトタワーとその周辺の海岸沿いにあるエレフテリアス広場を暗い中散策した。この塔は15世紀にヴェネチア人が作ったもので、高さが31mある。牢屋として使われた時期もあったが、今はビザンチン博物館となっている。最初の予定ではこのテッサロニキからイスタンブールまで夜行列車(フィリア・エクスプレス)でイスタンブールまで行き朝に着く予定であった。ところが、国境に近いトルコ側で22日に降った雨のために軌道の土が流されたため列車が不通になってしまった。そこで急遽、バスによる移動となり、バスによる場合は時間がかかる為国境から15km手前のギリシャの町のホテルに行くことにした。ホテルに到着したのが、午後11時頃であった。

11月26日(月)天気が余り良くない中、朝8時頃イスタンブールに向けて出発し、ギリシャからトルコへの国境の手続きに約1時間ほどかかり、昼頃イスタンブールに到着した。列車のイスタンブール駅でトルコ側の現地ガイドと会い、イスタンブール市街観光に出た。イスタンブールは東西文明の接点にあり、人口900万人ほどのトルコ最大の都市で、ヨーロッパ側とアジア側にボスポラス海峡を隔てて分かれている。ボスポラス海峡は北は黒海と南はマルマラ海とを結んでいる。西側のイスタンブールは入り込んだ金角湾で南北に分かれている。この金角湾の南が旧市街で北側が新市街である。イスタンブールに遅く着いたため、観光に行くのはブルーモスク(スルタン・アフメット・ジャミイ)にのみとなった。高さ43m、直径23.5mの巨大ドームの周囲に6本の尖塔(ミナレット)を持つイスラム教寺院である。17世紀初めに、スルタン・アフメットにより建てられ、オスマン・トルコ建築の極みとされている。ブルーモスクと言われるのはイズニック産のブルーのタイルが使われ、非常に美しいことからヨーロッパ人に呼ばれるようになったとのことである。外部は全体が石造りで、ドームや尖塔の屋根はブルーであるが特に色合いとしては特に目立って美しいとは見えないが、6本の尖塔と大きなドームとが調和した堂々とした造りである。中庭は広くてシンプルである。また、礼拝堂の中は非常に大きなドームで美しいタイルで満ちているが、ブルーモスクと言われるほど青のタイルで満たされているものではなかったので大分違う印象を受けた。特に祭壇に礼拝するのではないため、キリスト教のようなはっきりとした重厚な祭壇は見受けられなかった。全体としては美しいことは確かであるが、少し、拍子抜けの感はぬぐえなかった。また、ステンドグラスにおいてもモスクの場合は美しいけれども模様としての美しさであり、キリスト教会のように物語性を持ったものではない。ブルーモスクからの出口から正面にアヤ・ソフィアがモスクと同じような形で聳えていた。このアヤ・ソフィアはやはり直径役30m、高さ54mの巨大ドームで4本の尖塔を持っているが、これはビザンチン建築の大聖堂でローマ時代にキリスト教会として建てられた。現在では博物館として使われている。我々は今回は遠望するだけであった。遅めの昼食後、450km離れたアンカラに向った。旧市街の城壁を見ながら、高速道路に入り金角湾を渡り、ボスポラス海峡の第2大橋を渡り、暗い中走り9時頃ホテルに到着した。

ブルーモスク

ブルーモスク中庭

ブルーモスク内の天井

ブルーモスク内正面

ブルーモスク正面

アヤ・ソフィア

旧市街の城壁

金角湾入り口方向と旧市街(右)、新市街(左)

第2ボスポラス大橋

ボスポラス海峡のマルマラ海側

ボスポラス海峡の黒海側

アタチュルク像

 

11月27日(火)早朝、首都アンカラの観光に出かけた。アンカラは人口約360万人で、人口ではイスタンブールより少なく2番目の人口で、1923年にトルコ共和国初代大統領ムスファタ・ケマル・パシャによって首都として政治の中心になった。この初代大統領が第1次世界大戦に敗戦し、セーブル条約により滅亡の危機にあったトルコを奇跡的に救ったことからアタテュルク(トルコの父)と呼ばれている。バスの窓からアタテュルク像を見て、アンカラ城址に向った。アンカラ城址はガラティアン城壁とローマ城壁により二重に囲まれており、今では城壁の中には全く普通の家が軒を連ねていた。城址の城壁の上からはアンカラの家並みが見晴らすことが出来た。トルコは国旗がたくさん掲げられているのと重要な施設には多くの軍人が実際に銃を構えて警護しているのが特に目に付いた。車中からアタテュルク廟を見ることが出来た。広い敷地に堂々とした廟で、外壁のあちこちに武装した兵隊が警備していた。バスガイドからは近くからは写真は撮らないように言われたので、バスが遠くになってから望遠で撮った。

アンカラ城址を望む

アンカラ城門

城内の街並み

アンカラ城から市街を望む

アタテュルク廟外周の軍人による警護

アタテュルク廟

塩製造工場と塩湖(ツズ湖)

カッパドキアの台地の横穴住居

昼食後、280km離れたカッパドキアに向った。途中には大きな塩湖のツズ湖が眺められ、塩製造工場もいくつか見られた。カッパドキアは1000mほどのアナトリア高原の中心にあるギョレメ地方にあった王国の名にちなんで付けられたもので、エルジェス山の火山活動で堆積した溶岩や火山灰が侵食されて出来た奇岩群が広がっている。そのうち、我々はギョレメの谷と修道士達の谷(パシャバー)を観光した。カッパドキアに近づくと白っぽい侵食された台地が現れ、台地には数多くの穴と建物とが混在した風景である。ギョレメの谷に着くと地中から成長したようににょっきりと突っ立った岩が点在し、その間に建物が混在し、突っ立った岩の中にまで住居がいくつも見られると言うなんとも不思議な光景が眺められるようになり、さらに修道士達の谷には観光パンフレットでよく目にする大地にいくつものキノコが生えたような岩が突っ立っていた(トルコ人は「妖精の煙突」と呼ぶ)。さらに近くには立ち寄らなかったが、横穴がぶつぶつと開けられたごつごつとした大きな台形の岩山を中心に数多くの建物が並んでいるウチヒサル城鳩の谷を望むことが出来た。これらの情景は異次元の空間を作り出し、SF小説の背景にもなるように思えるほどであった。ウチヒサルとは3つの要塞を意味する。鳩の谷は岩山の穴を鳩の巣として利用し、鳩の糞をブドウ畑の肥料として使っていたことによる。ガイドさんの知り合いの洞窟で住む家に立ち寄り、生活状況を見せてもらった。夏は涼しく、冬は温かい生活であるとのことであった。中に入ってみると鉄筋の建物の中に居るのと余り変らない感じを持った。この後、日が暮れてきたので、ホテルに入った。

侵食、風化の激しい台地と横穴住居

ギョレメの谷の入り口付近からの眺め

ギョレメの谷の入り口

パシャバー(修道士達の谷)を望む

丘の上からのパシャバー

平地からのパシャバー

丘の上からのギョレメの谷

ウチヒサル城と鳩の谷

裏側からのウチヒサル城

ギョレメ屋外博物館

岩窟教会の天井フレスコ画

岩窟教会のフレスコ画

 

11月28日(水)今朝の天気はガイドさんによると雪の可能性があるとのことであった。まず、空は曇っており、少し寒い中(約0度)ギョレメ野外博物館に行った。この博物館には岩窟教会が集中しており、その中はビザンチン様式で造られ、美しいフレスコ画で飾られている。これ等の岩窟教会にはエルマル・キリセ(リンゴの教会)、ユランル・キリセ(蛇の)教会、カランル・キリセ(暗闇の教会)など11世紀に建てられた教会で、内部の壁画などの保存状態が良かった。壁画が剥げ落ちている部分はイスラム教徒により剥ぎ取られたものである。いずれも色合いの優れたフレスコ画であった。野外博物館を出る頃から雪がちらつき出し、ウチヒサル城が雪でかすみ、うっすらと道端に雪が積もるまでになった。この中、トルコ石の店に行った。ここでは娘のためにトルコ石のペンダントを購入した。さらに絨毯製造所を訪れ、いろいろな絨毯を見せられたが、ここでは買うまでには至らなかった。この後、230km離れたコンヤに向った。小麦畑や牧場などが続く中を進み、途中、シルクロードの隊商宿の跡のキャラバンサライに立ち寄り、夕暮れ近くにコンヤに着いた。コンヤは11世紀から13世紀にかけて、セジューク・トルコの首都が置かれていた町で、今でもその頃の遺跡が残っている。そして、イスラム神秘主義教団「メブラーナ教」の発祥の地でもある。メブラーナ教は13世紀に神学者メブラーナ・ジェラレッディン・ルーミにより興った神秘主義的イスラム教団で1925年にアタテュルクにより宗教活動が中止された。この教団の修行場で始祖メブラーナの霊廟であったとこが博物館として現在使用されているので、このメブラーナ博物館にまず訪れた。中は撮影不可であったが、メブラーナを始めとした多くの聖者たちの棺が安置されており、日常品の陳列もあった。棺が安置されている状態は異様な光景であった。この後、日は暮れたが、インジェミナーレ神学校に立ち寄った。中に入る時間もなかったので外部を見たにとどまった。

ギョレメ屋外博物館内

岩窟教会のフレスコ画

雪のちらつきで煙るウチヒサル城

トルコ絨毯の製造所

絨毯販売時、円形絨毯の飛ばしショー

コンヤへの途中の隊商宿の跡(キャラバンサライ)

メブラーナ博物館

インジェミナーレ神学校

コンヤのホテルから眺め1

コンヤのホテルから眺め2

パムッカレへの途中

パムッカレへの途中2

 

11月29日(木)快晴の中、7時30分ころコンヤを立ち、410km離れた石灰棚で有名なパムッカレに向った。向う途中穀倉地帯や牧草地帯を通り抜けてひた走ったが、2000m以上の山々は雪が被っていた。また、大理石の切り出し場や集積場が見られた。昼頃にパムッカレへようこそというゲートくぐりしばらく行くと白い丘が見えてきた。道路から見る限りは石灰棚には見えず、単なる白い石灰の丘のように見えた。パムッカレとはトルコ語で「綿の城」の意味である。昼食後石灰棚の上とその上に広がるヒエラポリスの観光を行った。石灰棚はカルシウムと二酸化炭素を含んだ温泉でこの温泉が崖のところで流れ落ちる時石灰質のみが崖に残ることと、長い間の水の作用により棚田のような地形が形成されたため、一面が真っ白い石灰棚が形成される。この石灰棚を望む上の広い台地にペルガモン王国やローマ時代の遺跡がある。全体の位置関係はパネル写真に示されている。遺跡の方は完全な形で残っいる建造物は余りなく、部分的なものが広いところに散らばっているため、なかなか見渡してもとらえどころが少ない。そこで、時間的なこともあり石灰棚の方に主に興味が行ってしまった。石灰棚は1km以上もの幅を持つ非常に規模の大きいものである。よく掲載されている石灰棚は水が満々と満ちた状態が取られているが、石灰棚の多くは水が入っていない状態に驚いた。それもそのはず、供給される水源が万遍無くあたり一面から湧き出しているのではなく数箇所の幅40cmほどの水路から供給されているため、この広大な石灰棚を水で満たし得ないように思えた。これほど広大な石灰棚を形成するには人間の歴史以前からの年月と豊かな水源があったと思われるが、現在は水量が少なくなったのだと思う。それと残念なことに最上部の棚のところで人が水と戯れている場所があり、人の足による棚の破壊があることと、これに関連するかどうかは分からないが、汚れた緑っぽい苔の繁殖しているような部分が目に付いた。私は見なかったが、石灰棚が温泉プールとして使われている場所があるようであるが、これは石灰棚を保護するためには非常に大きな問題だと思った。すばらしい石灰棚眺めているうちに日が傾いてしまい、空港のあるデニズリに向った。ここから20時5分発イスタンブール行きの飛行機に乗り、イスタンブールに21時15分に着きホテルに22時30分頃到着した。

パムッカレへの途中3(大理石置き場)

パムッカレの石灰棚

ヒエラポリスの門

ヒエラポリス遺跡

ヒエラポリス遺跡

ヒエラポリス遺跡3

ヒエラポリス遺跡と石灰棚4

石灰棚

 

石灰棚2

石灰棚3

石灰棚4

水と戯れる石灰棚5

水のない石灰棚6

水のない石灰棚7

水の満ちた石灰棚8

水の満ちた石灰棚9

イスタンブールの城壁1

イスタンブールの城壁2

朝食販売

グランドバザール

11月30日(金)、8月1日(土)朝9時頃ホテルを出発し、グランドバザールに行った。まだ朝の早い時間だったためグランドバザールの店もまばらにしか開いていなかった。グランドバザールは日本の商店街のようにアーケードの下で店が両側に並んでいる。ただ、店としては金銀の首飾りや他の部分の飾りがショウケースいっぱいに飾られているものや、金属製の装飾食器などが店いっぱいに飾られていたり、絨毯が店先いっぱいまで吊るされていたりした。このグランドバザールは昔は土地の人たちが多く繰り出し、買われていたが、最近は外国の人しか訪れなくなっているそうである。余り、買い物意欲もなく、目を楽しませるだけに終わった。ついで、トプカプ宮殿に向った。トプカプ宮殿は15世紀イスタンブールを征服したメフメット2世が建設し、1839年にアブドゥル・メジト1世がドルマバフチェに移るまで歴代のスルタンが居城として増築してきた。現在ではオスマン時代の遺物の博物館になっている。煙突の連なる建物はかつてのスルタンの台所で現在では陶磁器の展示室になっており、たくさんの陶磁器が陳列されていた。そして、宝物館には非常に多くの高価な宝石類の陳列があったが、ここは撮影禁止になっていたので、その多さや豪華さを撮ることが出来なかった。また、ここで、有名なエメラルドをはめ込んだ黄金の短剣や80カラットのダイヤモンドはたまたま同時期に日本で開かれているトプカプ宮殿の秘宝展に出品されていたようである。また、テラスからのボスポラス海峡と向こう岸の都市の眺めはすばらしいもので、もう一方のテラスからは金角湾の向こう岸のガラク塔が眺められた。そして、ハレムの関連建築のタイル装飾はすばらしいものであった。

イスタンブール観光後、イスタンブール空港に向かい、イスタンブール発17時15分の飛行機でドーハに22時05分に着き、ここで、23時55分発の航空機に乗り継ぎ、関西国際空港に15時10分に無事到着した。

今回の旅行は歴史あり、珍しい自然ありで良く、気候は冬とは言え、大阪の冬と同じか少し寒い程度なので、行動に支障もなかった。ただ、この時期昼の時間が短く、暗くなるのが早いため、行動範囲や写真撮影には少々問題はあった。食べ物は出発前の案内ではあまり生の野菜なんかは勧められないとのことであったので、野菜ジュース缶詰を用意していって出来るだけ生野菜を食べるのは少なくした。概して、当初の目的は達成できて満足である。しかし、身体の疲れは年々少しづつ増して行くように思われる。

店舗1

店舗2

店舗3

青空バザール

トプカプ宮殿帝王の門

陶磁器展示室1

陶磁器展示室2

厨房品展示

宮殿からのボスポラス海峡1

宮殿からのボスポラス海峡2

宮殿からのボスポラス海峡3

ハレムなどのタイル

ハレムなどのタイル

ハレムなどのタイル

帝王の部屋

 

 

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