西安・大連紀行

平成17年9月10日から17日にかけて中国の西安と大連を旅行した。今回の旅行は同窓生を中心として夫婦で参加したもの、シングルで参加したもの合わせて24名の団体でほとんどが60代半ばのものであった。このような仲間での長期旅行は私としては初めてであるが、知らん仲でないという気持ちがあるため、気を張らず、和やかな気分で楽しく過ごすことが出来た。5月に韓国を旅行し、韓国の文化に触れることが出来、次は中国に行きたいと考えていた時に、誘われ参加した次第である。

9月10日(土)関西空港に午前8時に集合し、中国国際航空(CA162便)で北京に12時10分に着き、更に北京で乗り換え、CA1225便15時25分発で西安空港17時15分に到着した。ついで、大きなバッグは別の自動車でホテルに運び、我々は小形バスで直接夕食のレストランに行き食事後ホテルに行った。途中の風景は道路沿いの商店には大きな派手な看板が掲げられていた。店のシャッターは鉄格子状のものがほとんどであった。我々の戦後において使われていたリヤカータイプの自転車が大いに活躍していた。また、日本での中古よりまだ古いようなオートバイなども多く活躍していた。3日目くらいにバスの前席に座って気がついたのであるが、このバスの速度計は壊れており、いつも0km/時であった。これで、高速も飛ばしていた。一方、市街地の住居は高層マンションが今も建築中のものが多く、活気づいていた。時差は中国が日本により1時間遅い。夕飯のためにホテルに行く前にレストランに行った。

西安空港

 

西安市内

 

9月11日(日)ホテルを出発し、最初の訪問地の華清池に向かった。途中多くの農家を車中から見たがほとんどがレンガ造りであった。西安は地震が少ないのでこのようなレンガ造りでよいとのことであった。このためレンガ製造工場でレンガが干してあるのをよく見かけた。西安はあまり雨が降らないようで、車中からの眺めでは、木々の葉っぱが埃っぽく、埃が積もっているように見えた。空気も埃っぽく遠くの見通しが非常に悪く、西安は黄河の支流の渭水を挟んだ盆地で、高い山に挟まれているようであるが、晴れていても見通しが悪く、山々が見られず、空の太陽も眩しさを失っていた。

華清池は西安市街から東30kmのところにあり、驪山の爆発により温泉が湧き出したといわれ、唐代の玄宗皇帝は「華清宮」を造り、寒い季節には楊貴妃と訪れたと言われ、専用浴室の址が残されている。また、ここは西安事変で蒋介石が張学良に捕えられた際にここに滞在した。蒋介石の執務室などがある。

楊貴妃の像と華清池

華清池内

海棠湯

楊貴妃の湯船

玄宗皇帝の湯船

西安事変旧址(荷花閣)

蒋介石執務室

兵馬俑博物館(1号抗が見える)

1号抗内部(東に向かって整然と兵馬俑が並んでいる)

兵馬俑の拡大

兵馬俑博物館は華清池からほど近くにあり、秦の始皇帝陵から1.5kmの所にある。干ばつの続いた1974年の3月、井戸を掘っていた地元の農民が陶器の破片を発見したことより見い出された。秦の始皇帝の陵墓を守る陪葬物といして焼かれた兵士や馬の人形(兵馬俑)があり、この発見されたままの土壌の上に屋根が覆われた状態である。これらは3つの抗に埋められており、1号抗は長さ230m、幅62mで、14260m2もあり、兵馬俑約6000体、2号抗は約半分広さのの6000m2で兵馬俑1000体余、3号抗は500m2と小さく兵馬俑は58体である。順路は1号抗→3号抗→2号抗→特別室(銅製馬車展示)であった。1号抗の兵馬俑は壮観と言う一言に尽きた。このようなことから秦の始皇帝の強力さがうかがい知れた。2号抗はほとんど発掘展示されていなかった。これには発掘され空気に触れると兵馬俑が着色されているのが退色してしまうという問題があるためである。特別室には発掘された半分くらいの高さの精巧に造られた銅製の4頭立ての馬車が展示されていた。昼食はここで摂った。ここで、行われている修復作業は気の遠くなるような時間を必要としているようだ。

兵馬俑の後部の埋もれている状態

背後から見た前列の兵馬俑

1号抗の後部では兵馬俑の修復が行われている。

銅製の4頭馬車

秦の始皇帝陵墓

大慈恩寺

帰路に秦の始皇帝陵墓を眺めることが出来た。遠くから見るだけであったので、高さ47mの小山はあまり威容さは感じられなかった。西安の南東の郊外にある大雁塔に向かった。

大雁塔は紀元652年唐の高宗李治が文徳皇后の供養に立てた寺である慈恩寺内にある。大雁塔は玄奘三蔵法師が天竺(インド)から持ち帰った教典を保存した場所で、今は教典は博物館に保存されており、現在のものは7層で高さ64mあり、この塔は最上階まで人が狭いが階段で登ることが出来、西安の街が一望できる。展望は非常に良かったが、やはりスモッグのような見通しの悪さが惜しく感じた。

大雁塔

大雄寶殿の仏像

 

 

115万年前の藍田猿人の頭蓋骨

周族の遺物

陝西歴史博物館は中国全土の中でも最大規模を誇る博物館のひとつで、大雁塔の北西にあり、面積約60000m2である。収蔵数は11万3000点、展示数は3000点余で、先史時代の彩陶瓶、殷・周時代の青銅器、唐代の金器、銀器、唐代の墓の壁画や唐三彩などがある。確かに歴史を感じさせるものが非常に多くあり、感動した。夕食は仿唐樂舞を見ながらの名物餃子宴であった。

秦以降の兵馬俑

唐代の壁画と同じ人形

館内玄関

法門寺

9月12日(月)天候に恵まれホテル出発し法門寺に向かった。法門寺は西安市街から約110kmほど西にある。途中、高速道路利用した。高速道路は西安郊外から西に150km程度、北に100km程度、東は北京に通じている。この高速道路は日本のように高低差も少なくトンネルもない平坦な道路である。しかし、走っている車は日本のような良い車ではなく、道路の整備状態もあまり良いものではなかった。さらに交通マナーも大阪の比ではなく非常に悪く、割り込みが激しく、引っ切り無しに警笛を鳴らしながら走っていた。また、路端には果物売り、特にざくろの実が多く売られ、行き先を掲げたヒッチハイクの人も多くたたずんでいた。

法門寺は後漢の147〜189年に創建された。そしてこの寺は、インドのアショカ王から送られた仏舎利(佛の骨)を安置するために建てられ、当初は阿育王寺(アショカ王寺)と呼ばれていた。1987年に塔を修復する際に発見された地下宮殿からは仏舎利の4点をはじめ多くの宝飾品が発掘されたが、仏舎利を収めた箱や宝飾品は法門寺博物館に納められている。今回は大雄寶殿と地下宮殿の見物であった。大雄寶殿にはお釈迦様をはじめ多くの仏像が飾ってあった。仏像はすべて金箔で覆われており、非常に華やかな感じがするが、あまり歴史の重みを感じさせない。地下宮殿にはお釈迦様の指先が安置されていたが、これの真偽のほどはうかがい知れなかった。一般の人の指先より相当太く見えた。

大雄寶殿

大雄寶殿内部のお釈迦様

地下宮殿上部

茂陵、武帝劉徹の陵墓

ついで、西安市街の西40kmのところにある茂陵に向かった。これは法門寺からホテルへの帰路にあたる。西安は農産物は豊富で、ぶどう、ざくろ、りんご、なしなどの果物、家畜用のとうもろこしが高速道路を挟んで広がっていた。茂陵のあたりには前漢11人の皇帝のうち9人が埋葬さている陵墓群がある。中でもこの茂陵は高さ46.5m、東西39.5m、南北35.5mと最も大きく、紀元前141年に造営された前漢の最盛期に創出した武帝劉徹の陵墓である。また、700m離れたところに茂陵から出土した文化財が陳列されている茂陵博物館と匈奴討伐に勝利を収めた漢代の有名な将軍雲去病の墓がある。こういうところはあまり中国の観光客は来ないのか静かなところであった。雲去病の墓の上からの眺めは良かった。近くには茂陵、遠くにいくつかの陵墓が見えた。また、レンガ造りの村落も眺められた。もっと視界がよければ山々も見えるはずであるが残念である。帰路、西安市街で鐘楼を車内から見ることが出来た。夕食は名物三国宴であった。

将軍雲去病墓

雲去病墓からの眺めで、遠くにいくつかの墳墓

鐘楼

安定門の上から南方の城壁

9月13日(火)ホテルを出発し、西安城壁見物として西門の安定門に行った。現在の西安の城壁は唐の長安城の基礎に明代のレンガを積み重ねて築いたもので、長さ13.7km、高さ12m、上部幅12m、底部幅15mである。これらには東西南北4つの門があり、物見櫓である城楼があり、なかでも西門の安定門が最も保存状態が良い。安定門からは、シルクロードが眺めることが出来る。物見櫓内にはじゅうたんや掛け軸などが販売されていた。城壁の外には堀があり、この堀の土を城壁の盛り土にしたとのことである。城壁をまじかに眺めると大きさ、堅固さが実感できた。城壁の上は観光用の電気自動車が動いていた。

安定門と城楼

西安碑林博物館

西安碑林博物館は長安城内の南門近くにあり、1090年(北宗時代)に創建された。展示物は漢代から近代までの石碑と石刻が2300点以上。中には65万文字におよぶ十三経の石碑、王義之、欧陽洵、慮世南、願真郷などの書道大家の原刻碑1000点以上がある。ここの一部で拓本製作が行われていた。石碑保存の規模の大きさに圧倒された。惜しむらくはカメラに収めようとするとガラスの反射が邪魔になり、うまく撮ることが出来なかったことである。この後乾陵に向かった。

碑林

拓本製作

乾陵博物館は西安市街から北西に60kmのところにあり、乾陵墓から発掘された物が展示されている。博物館のそばの永泰公主の墓は乾陵の陪葬墓のひとつで、高宗と則天武后の孫娘で、この墓の下には地下道が墳墓の真下の石棺までつづいており、高松塚古墳の壁画のような壁画が描かれている。この地下道の長さは150m程度で入り口から下っていた。このような壁画の技術が日本にも伝わってきていることを思うとこのような技術の源泉を見れることに感動した。乾陵は唐の第3代皇帝高宗とその夫人で中国唯一の女帝則天武后との合葬墓である。この墓は梁山の峰を利用して造られた。長さ500mの参道には120余の文武百官の石像のほか翼馬、駝馬、馬、ライオンなどの石像が立ち並び、少数民族と見られる61体の首なしの像もある。参道に立つと本当に広々とした石畳の道が続き、大きな石像もあまり大きく感じないほどであった。我々は並木のある土道の参道の入り口で引き返した。このようなところに立っていると時間がゆったりと流れていくようであった。夕食は名物火鍋料理であった。

永泰公主の墓

地下道入り口付近

永泰公主の墳墓

乾陵参道

乾陵参道の途中

大唐芙蓉園

9月14日(水)ホテルを出発し、大唐芙蓉園に向かった。大唐芙蓉園は大雁塔の南東の方向1kmほどのところにあり、湖を中心に唐の文化を紹介したテーマパークで、園内には中国最大規模の唐代建築のレプリカ群があり、唐代の各時期・各様式の建物がすべて揃っており、唐代の遺跡「芙蓉園」遺跡の北側に建てられたもので、敷地面積は約67ヘクタール、うち池などの水面の面積は約20ヘクタールを超える。今年の4月にオープンした。ここを電気自動車で一周し、さらに中心部を散策した。休日をのんびりと過ごすのに良い場所だなと思い、まだ、オープンして間もないため木々も小さくまばらに見えるが、時間もたち、草花もより充実させればよいものになるように思った。

唐市

紫雲楼の眺め

紫雲楼から大雁塔を眺める

阿倍仲麻呂の記念碑

長安城の東門近くの興慶宮公園に行った。ここは唐代の3大宮殿の一つである興慶宮跡地と竜池に造られた公園である。公園内には玄宗皇帝が楊貴妃と遊んだ沈香亭や宴会場所の花萼相輝楼などが復元されている。また、一角には716年に日本の遣唐使として選ばれた阿倍仲麻呂が唐土で没しことの記念碑が建てられている。記念碑には李白の追悼の詩と阿部仲麻呂の故郷をしのぶ和歌が刻み込まれている。「あまの原 ふりさけ見れば かすがなる みかさの山に いでし月かも」。この後西安空港に向かう。

西安空港での出発時間は当初は17:10であったが、飛行機(中国南方航空:CZ6424)の到着が遅れ、結局1時間遅れとなり、18:10に出発し、大連空港には20:10到着した。時間も遅いのでレストランに直行した。夕食は大江戸の日本料理であった。

沈香亭

勤政務本楼

9月15日(木)ホテルを出発し、東鶏冠山北保塁に向かった。ここは203高地より旅順港に近く、ロシア軍が築いた強固な保塁で、地下道もあり、何百人もの兵士がここを守っていた。

203高地は海抜203mあることから命名されたもので、爾霊山とも呼ばれている。1904年に日露戦争が開戦した。12月にロシア軍の拠点だったこの場所を乃木大将の率いる軍隊が陥落させた。この203高地に行くためには中腹まではバスでいけるが、途中から徒歩で登る必要がある。登りが少しあるため、有料ではあるが、2人の担ぎ手がついたかごが活躍していた。

水師営は日露戦争の旅順開城の際(1905年1月5日)日本軍司令官乃木希典とロシア軍司令官ステッセルが会見した場所である。中には会見した机があり、別室には当時の写真が多く展示されていた。

これらの日露戦争の歴史的遺跡ははしくれではあるがかすかに体験した太平洋戦争のように身に詰まされることなく、わりと気軽に歴史的事実として眺めることが出来た。戦争形態は太平洋戦争とは比較にならないようで、戦争形態の進展は急激に変わっていくものである。

昼食後ホテルに帰り、後は自由行動になった。私一人ホテルの前にある労働公園に行った。労働公園に行くのに2つの信号の横断歩道を渡らなければならなかった。西安、大連での交通マナーを見て、一人で出歩くのはあまり気が進まない。その理由は幾度も車中内から見た光景であるが、人が道路を横切って渡る時は中国では横断歩道もそうでない場所もおかまいなしに自分が渡りたいところであれば即横断歩道のように渡り、平気で自動車の往来を縫って行く。自動車の方も人はおかまいなしに横断歩道も気にしないで走っていく。信号のところでは一応、車の方は信号に従っているが、人は信号を無視して横断歩道を車を縫って渡ると言うようなもので危険極まりない。このような状態のなか私は一応、信号に従い2つの信号の横断歩道を律儀に守って渡ることが出来、労働公園内に入ることが出来た。労働公園内は広々としており、ゆったりと散策できた。公園のホテルとは反対側のテレビ塔がある山の側の端にテレビ塔に行くリフトが設置されていたので、このリフトに乗りテレビ塔のある山に登った。山からの眺めは非常によく、大連の港を見渡すことが出来た。公園内の一部には多く桜が植えられ、日中友好の桜と言う記念碑があった。また、公園内で、5人ほどの年取った男性がビルの高さに匹敵するほどの高さまでたこをのんびりと揚げていたのが印象に残った。帰りも同じ横断歩道を渡って帰ろうとした。一つの横断ほどは横断歩道の信号が青に変わり無事渡り終えたが、もう一つの信号のところで自動車用の信号は何回となく変わるが歩道用の信号は赤のままであった。人は次から次へと赤にもかかわらず渡って行った。私はなお青になるのを待ったが一向に変わらないので信号機の柱のところを見渡したところ、横断歩道専用の信号ボタンがついていることに気がつき、ボタンを押して信号を青にして渡ることが出来た。私が待っている間、数十人以上の人は信号ボタンを押さず、赤のまま車を縫って広い道路を渡って行った。はなから信号ボタンを押すことは考えていないようである。

東鶏冠山北保塁の記念碑

保塁で見える穴は日本兵が爆破した跡

203高地の記念碑(爾霊山)

旅順港を望む

水師営の会見室

当時の写真集

水師営

テレビ塔へのリフト

テレビ塔からスイスホテルを望む

大連港を望む

9月16日(金)ホテルから中国に来てはじめての雨の中、開発区にある箸製造会社、包装印刷会社を訪問した。これらの会社は今回の旅行の世話をしてくれた同窓生の取引先でもあり、日本との取引の際の指導やアドバイスを行っている会社である。写真では割り箸の品質、等級選別を行っている。包装印刷のサンプル展示を見ると日本でも多く見かけるものがあった。これらは中国経済を元気にする一翼を担っている。いまや中国は若い人たちが一攫千金をねらって活躍できる場になっている。

箸製造会社(箸の品質、等級選別作業)

包装印刷工場

9月17日(土)日本へ帰国する日でホテルを7時20分頃出発し、大連空港を予定の9時10分を出発し、関西空港に12時20分予定通りに到着した。今回は偉大な歴史の西安と現代の元気な大連とに出会うことが出来た。平常の生活時には私は1週間の内休肝日を数日もうけているのであるが、悪友と宴に誘われ7日間酒と付き合ってしまった。中国での食事は私には非常に良かった。野菜が多く辛いものはあるが辛くないものも多く出されたので、先日の韓国での料理より私にとってはずっと良かった。疲れたが楽しかった。

大連空港

境港上空

 

                                                上部へ      

HOME 趣味1(旅行) 趣味2(絵画他) 趣味3(陶芸) 徒然(電気雑記)

 

 

 

 

    

inserted by FC2 system