中欧ヨーロッパ旅行記(オーストリア、ハンガリー、チェコ、ドイツ)

勤めの最後の年なので長期休暇をとり中欧ヨーロッパ10日間(平成14年7月21日〜30日)の旅行をすることにした。

7月21日(日)午前7時タクシーで天満橋のホテル前の関空行きのリムジンバスに乗り8時過ぎに関空に到着した。海外旅行は2度目で12年ぶりのため、着いたときに何をすればよいのかわからなかった。また、集合場所についての地図の見方が悪かったためにしばらくは関空案内所の近くにいるだけであったが、しばらくしてから地図を確かめ添乗員のいるカウンタに行き、登録し、荷物の預け渡し場所へ行った。荷物預けの後、出国手続きを行い、飛行機の搭乗のために手荷物および身体チェックを行った。この時、金属探知器にひっかかってしまい入念に身体検査を受けた結果ベルトのバックルの金属によることがわかった。このようなものでひっかかってしまうのでは外国でも心配だなと思い、ひもにでもしようかなとも思ったが、急に手に入れることもできないし、飛行機に乗るのは今後帰りの一回しかないので、原因がわかっているので、いまのままのベルトを使うことにした。午前10時50分頃ほぼ定刻であったと思うが、オーストリア航空の飛行機は関空を無事飛び立った。機上時間は約12時間である。飛行コースは常に各席の液晶画面に映し出されており、この画面を見たり、窓から下界を眺めたりして過ごし、また、ときおりうたた寝もした。日本時間で2、3時頃食事が出され、ウイーンに着く2、3時間前には日本時間での夜食が出された。また、ワインや他の飲み物は数多く出され、ワインを飲みすぎた。飛行コースは正確ではないが北京の北側を通りゴビ砂漠を通りモスクワの北側を通り、ウイーンの北から入っていくコースであったと思う。席は右側の窓側であった。ゴビ砂漠をはじめモンゴルの山々のためかアンジュレーショのある褐色の大地が広がっているのが見えるだけであったが、その上の雲のかげが地上に投影され面白い模様をかもしだして、無味乾燥な風景を面白くしていた。東ヨーロッパに近づくにしたがってモザイク模様の緑の畑、麦の刈り取った後の黄褐色の畑地、濃い緑色の林および小高い山地などに変わって変化のある下界が見られるようになり、飽きずに眺めていた。

*以下のすべての写真は画像のクリックにより拡大写真になります。

飛行機の降下時にドナウ河を見ながらウイーンの空港に7月21日(日)の現地時間で定刻の16:05頃に無事降り立った。日本ほどではないが、天気は快晴でやや暑く感じた。 搭乗口から出て入国手続きを行ったが、他の飛行機からの乗客と合わせて非常に多くの乗客が手続きを行ったので、非常に混雑した。この中でも日本人の乗客が多く目に付いた。また、強く感じたのは、ユーロ地域の乗客は別の窓口が設けられていて非常にスムーズに入国手続きが行われていた。荷物を確認しバスに乗り込み一路ハンガリーのブダペストに向かった。今回のグループは添乗員を含めて39名で1台のバスで満員であった。途中は高速道路であったが、道路はほとんどが平坦なところを通っており、なだらかな起伏の地形をしており、ほとんど人家も近くにはないようなところを貫いており、片側2、3車線のもので、工事費としては日本の一般道路と同じくらいではないかと思えるほどのもののように思えた。また、道路管理状態もあまりいいとは言えるものでなかった。これにひきかえ、日本の高速道路は高架、山地を削り、山をくり貫いたトンネルの連続であり、道路沿いはほとんどが人家の多いところを通っており、価格の高い土地の買収などのため、非常に高い工事費がかかっており、高速道路の有料化もやむおえないのではないかと思った。これもやはり、山国であり、人口密度の多い国の悲劇ではないだろうか。道路状態は悪い箇所においてはタールによるひびわれの補修が多くされており、乗り心地の悪い場合も割合あった。途中の車窓からは、なだらかな牧草地、ひまわり畑、とうもろこし畑、麦畑、すでに刈り終えた麦畑などが眺められ、それらの間にときおり教会の塔を中心にした赤い屋根の集落が目をなごませてくれるが、比較的単調な眺めであった。ウイーンからブダペストへは事前の勉強不足のため東北へ進むように思っていたがそうではなく、東南東の方角に向かって進んだ。始めは右の車窓から、日が傾いてくると背後から右の車窓に日を受けながら進んだ。途中、国境があり、出国、入国手続きを行ったが、このときはバス内に検査員が乗り込み各自のパスポートを見て回わるだけで簡単に終わった。国境ではカメラによる撮影は禁止されており、絶対に守ることと言う注意が添乗員からあった。ここの換金所で、日本円4千円をフォリントに換えた1フォリントが約0.5円である。ここで、トイレに入るために4、50フォリント必要なため小銭を得るため水を買った500ml1本400フォリントであった。トイレ休憩後、ブダペストに向け出発した。ウイーンからブダペストまでは約250キロの道程で、約3時間かかった。午後7時半過ぎインターコンチネンタルホテルに着き10名をここで降ろし、私を含めて残りの者泊まるホテル、ホリデイ・イン・ブダペスト(見かけはあまりぱっとしない3階建てでブダペストの郊外)に8時過ぎに到着した。そこで、夕食をはじめてとることができた。夕食の内容は記憶が確かではないが、非常に硬い鶏肉で野菜少々で硬いまずいパンでほとんど満足に食べられなかった。

 

7月22日(月)昨夜は非常に到着が遅かったので寝不足であったが、朝6時30分にモーニングコールがあり、少し早い目にレストランに行ったがまだであったので、玄関の外に出てみたが朝の空気はすがすがしかった。7時30分レストランで朝食を取り、今夜は同じホテルであるため荷物のまとめは比較的簡単に済ませることができ、8時過ぎにバスに乗り込み8時30分頃出発し、インターコンチネンタルホテルで宿泊した人たちを乗せ、ブダペスト市内半日観光に出発した。はじめは、ペスト市街地すなわちドナウ河の東側の街の遊覧を行った。国立オペラ座などの建物をバスから眺めながら●英雄広場でバスを降り、ガイドの説明を聞いた。ハンガリー建国1000年を記念して作られたもので、中央には建国1000年記念碑があり、碑の最上部には大天使ガブリエルの像がある。そして、周りには扇状の列柱があり、そこにはハンガリーの英雄14人の像が並べられていた。ここで、参加者全員の記念写真が撮られた。次いで、聖イシュトバーン大聖堂に行った。2本の塔をもつブダペスト最大の教会で、礼拝堂には建国者イシュトバーン王のミイラ化した右手が安置されている。教会の礼拝堂内のドームの壮大さ、ドーム壁面の絵や聖壇の荘厳さ、ステンドグラスの華麗さ、彫刻の精巧さ重厚さに見とれ圧倒された。一カ所にいくらとどまって眺めていても、眺め飽きない感を覚えた。

 

 

次いで、国会議事堂の前を通りドナウ河のマルギット橋を通りブダ側に渡った。●漁夫の砦前でバスを降りた。ここは小高い位置にあるためペスト側の眺めは非常によい。ここでは、王宮の方へは行かず、マーチャーシュ教会に行った。この教会の屋根が非常に美しいもので、オレンジのかわらに黄色のアクセントがあり、光線のあたりようによっては黄金色にも見え、遠くからも目立っていた。また、教会内も非常に美しく、ステンドグラスも非常にきれいなものであった。昼食はジェルボーで取り、昼食後ドナウ河遊覧クルーズで、船着場はマルギット橋をマルギット島の方に越えたところでそこからベトフィー橋を越えたところを折り返すコースであった。天気もよく風もあり快適なクルーズであった。

ただ、乗船距離は短いためそれほど景色が大きく変わるというようなものではなかったが、ブダの王宮、教会、漁夫の砦、ゲッレールトの丘、そして、●国会議事堂を角度を変えておもしろく眺めることができた。クルーズが終わった後、午後6時半まで自由時間となり、インターコンチネンタルホテルに集合であった。そこで、その間、各自、自由行動をした。われわれはブルシュマルティ広場を経てヘレンド・ボルツェラーンでヘレンドの陶器を見学したのみで、インターコンチネンタルホテルに帰りロビーで2時間以上休憩していた。この間、ロビーからはドナウ河を隔てて●ブダの王宮がまともに眺めることができ、くさり橋を通して漁夫の砦、マーチャーシュ教会も眺めることができた。

天気はホテルに帰る前は快晴であったが、にわか雨が時折あり夕方は曇っていた。ウドバルハージというレストランであったと思うがレストランへ7時半ごろ行き、食事をしながら民族舞踊を楽しむことができた。このレストランは穴倉のようなところであった。また、われわれのグループ以外にも3組ほど日本人客が来ており、1組ほどが、日本人以外の外人であった。踊りは男女数組(ジプシーが多いようだ)によるもので非常に軽快なリズムのもので、楽しかったが、彼らは非常にチップをほしがり、あまりいい気分ではなかったが、1000フォリントを渡した。われわれのグループの他の人も同じだけチップをはずんだので彼らは非常に良い収入を得たようで機嫌がよかった。後で聞いたが日本人は「歩くバンク」と言われているようだ。約2時間後ゲッレールトの丘に行き丘の上からの夜景見物を行った。その後、11時近くになり、ホテルのホリデイ・イン・ブダペストに帰った。この晩は夜遅かったのに、翌日はウイーンに移動しなければいけないのでモーニングコールが5時で朝食は6時で、6時までに部屋前の廊下にトランクを出しておかなければならないので非常にきついスケジュールであった。

7月23日(火)7時15分頃バスに乗り再びインターコンチネンタルホテルに向かい仲間を乗せ、ウイーンに向かった。約9時頃小さな町センテンドレに着き、町は小さいが路地が多く迷いやすそうなのでガイドと共にみんな一緒に散策した。たぶん近道と思うが、確かに、一人くらいがようやく通れるくらいの路地をくねくねと通り町の広場に出た。そして、さらに細い道を通り下っていくとドナウ河の川べりに出た。川べりから眺めるとセンテンドレはドナウ河に沿うてたたずむかわいい町であることがわかる。コヴァーチ・マルギット美術館、ワイン博物館などがあるようだが、時間がなかったので、入ることができなかった。外国へくるとトイレに苦労するが、ここでもみやげ物店に男女共用で1つしかトイレがなかったので、非常に時間がかかった。11時頃エステルゴムに向かった。エステルゴムでは大聖堂の直ぐ下の駐車場に着いたが、そばには、多くのテントの露天が並んでおり、片言の日本語で売りつけようとしていた。ここでもガイドからスリに気をつけるようにとの注意があった。大聖堂へ行く途中に家族連れがぶらぶら歩いていたが、どうも彼らが怪しいようで、彼らが近くを通っているときには特に日本語でスリに注意するように大きな声を出していた。どうも、常連のスリをガイドはうすうす分かっているようだ。

●大聖堂はハンガリー・カトリック教会の総本山であり、外観においても非常に堂々としており、祭壇やドーム、壁画なども荘厳であった。そして、祭壇には聖人の頭蓋骨が祀られていた。また、大聖堂のある小高い丘からは河の方を見下ろすと、この町がドナウベンド(ドナウの曲がり角)にあることがよくわかる。また、ドナウ河の向こう岸はスロバキアであるようだが、見る限りでは大きな町は見られず、なだらかな丘陵地の畑が続いているようであった。ついで、パンノンハルマに向かった。パンノンハルマの世界遺産ベネディクト修道院は現存する最古のキリスト教会とのことである。内部は撮影禁止で、ガイド付で見学した。

聖イシュトヴァーンの父ゲーザにより996年に創立され、度重なる修復が行われ現在にいたっている。ここには図書館もあり、36万冊の蔵書があり、見るからに古いという印象を持った。この図書館では、修道尼の監視つきで本にあまり近づきすぎると即座に注意され非常に厳しかった。修道院は丘の上にあるため非常に眺めがよく遠くに小さな赤屋根の群がりが美しく眺められた。これから一路ウイーンに向かった。途中の国境では、2日前に出国したオーストリアに再入国することになる。オーストリア出国ハンガリー入国時にはバス内に検査員が来て、ハンを押すだけで非常に短時間で済んだので、今回のハンガリー出国オーストリア入国も非常に短時間で済むと考えていたが、ところがここで今回は非常に時間がかかり約2時間以上もかかってしまった。ほかのヨーロッパの観光バスはすいすい横を通り過ぎていったが、われわれ日本の観光バスは足止めを食ってしまった。この原因は一人の検査官がわれわれの日本人のパスポートに偽造がないかをいちいち確認しだして、本部との連絡電話が幾度もなされたためであった。非常に腹立たしい出来事であった。このため、ウイーンのホテル、ドリントアム オイローパプラッツに非常に遅く着き、午後10時近くになってしまった。

 

7月24日(水)はモーニングコール7時で、朝食は6時半からであり、9時出発であった。今日は午前中はウイーン市内観光で午後はオプションのウイーンの森観光である。まず、●ベルヴェデーレ宮殿で1723年にオイゲン公が建てたものでバロック様式の建築である。内部の見学はなく庭園だけの見学であった。広々とした庭園であったが、特に目立った造作には思われなく、印象に薄いものであった。次いで、シェーンブルン宮殿に行った。ここは、1683年にレオポルド1世が建築を命じ、1713年に完成したもので、ここも庭の見学で終わった。庭はベルヴェデーレ宮殿のもと同じように広々としていたが、取り立てて目を見張るものはなかった。次いで、市内をバスで回った。バスからの観光は説明があってもなかなか掴みきれず、後で印象に残るものは少ないものになってしまう。午後はウイーンの森観光に出かけるが、ウイーンの森というのはウイーン市内の平地にある森と言うのではなく、ウイーンの北西から南西にかけて延びる緑濃い丘陵地帯の呼び名である。そこで、観光はこの丘陵地帯の一部をバスで回った。まず始めはシューベルトが「菩提樹」の楽想を得て作曲した場所と言われているヘルトリッヒのホテルレストランに立ち寄った。外観だけであったが、小さな小奇麗なレストランであった。外側の軒下にはシューベルトの椅子に座っている像が置かれていた。

これについで、ハイリゲンクロイツにある●ツイスターツエンザー修道院に行った。中はやはりすばらしく、ステンドグラスもうつくしく、廊下も静かな落ち着いた美しいものであった。次いで、休憩のために「グライナー・ヒュッテ」でアインシェペンナー(生クリームがたっぷりの)のウインナーコーヒを飲んだ。ここは広い裏庭があり、その奥は深い森になっていた。この後、マイヤーリンクのヨーゼフ教会に行ったが、ここは撮影禁止でガイド付きで部屋に入るとき出るときいちいち開錠、施錠がなされ非常に厳格であった。フランツ・ヨーゼフ一世の「うたかたの恋」が有名であるようだ。

この後、夕食までにまだ時間があったので、「第三の男」で有名な●大観覧車に乗ることができた。観覧車は内部が古い木製のもので、10名程度が定員で、真ん中に椅子があり窓際に立つようになっていた。観覧車はゆっくりと回転しているが、なにぶん回転の直径が小さいため案外速く回って元に戻ってしまった。ウイーンの2区にあり、中心の東の遊園地にあった。車輪は日本にあるような大きなものではなかったが、市内全体が高層ビルが少ないため見晴らしは非常に良かった。あいにく少し曇りがちで見通しもそれほど良くはなかったが、異国情緒は十分に味わうことができた。夕食はホイリゲのレストランで取った。

  

7月25日(木)はチェコに向かうため、モーニングコールは5時半に6時半荷物を廊下に、6時半食事、7時15分出発と言うあわただしさであった。そして、途中、国境での手続きも簡単に終えることができ、チェコのチェスキークロムロフ城に行った。ここはブルタバ川(モルダウ川)の上流で蛇行しているところにある。バスを降りて城への道は観光客も多く、川には多くの楽しそうなカヌー遊びの若者でにぎわっていた。道はだらだらのぼりで、町並みもきれいで楽しく歩くことができた。城の内部は撮影禁止であった。●城からの眺めは非常に美しく、多くの観光客でにぎわっていた。城の観光を終え、プラハに向かい夕方にプラハに着き、ホテルデュオに泊まった。このホテルは比較的大きく、着いたときは、泊り客でごった返していた。そして、東洋系の旅行客が多く泊まっていた。

  

7月26日(金)6時半モーニングコールで朝食は6時半からで8時半ボヘミアの古城観光に出発した。ボヘミアの●古城カレスティン城は小高い丘の上にあり、ここではそばまで観光バスが行けないので、城への長い坂道を行く必要があり、馬車またはタクシーがあった。そこで、約半分の人は馬車2台に分乗し、残りの半分は歩いた。私は喜んで歩くほうに入り、馬車が坂道でゆっくりと歩くので競争のようにして歩き、城には一番早く登り着くことができた。道は山あいを通っており、その両側にみやげ物店が小綺麗に続いていて、みやげ物店と道路の間には小さな川が流れていた。少し汗をかいたが快感であった。この城は古城らしき風格を持った城であった。内部は団体ごとに入場時間が決められており、場内はやはり撮影禁止であった。

午後からはプラハ市内観光でまず、プラハ城に行った。ここは、旧王宮でここには衛兵がおり、女性たちが喜んで衛兵の横に行き写真を撮っていた。昔は衛兵の交代式もあったが、現在はそれがなくなったということである。 さらに王宮内の●聖ビート大聖堂に行った。この大聖堂の塔は非常に高く見上げるにもしんどいほどで圧倒されるものであった。内部は撮影禁止であったが、非常に屋根が高く内部も壮大であった。さらに、外観だけであるが聖イジー教会の横を通り、黄金の道(通行料が必要)を通る。この道は人が多いが狭い石畳の小さい店が並んでいるだけであった。さらに少し歩き城壁伝いにプラハ城を出た。そこから、カレル橋まで石畳の道を歩いて行くとカレル橋に近づくにしたがってさらに人が増えていき、やがて、橋門塔に着いた。

そして、塔の下を通りヴルタヴァ(モルダウ)川にかかる●カレル橋の上をゆっくりと渡った。途中の橋の欄干には数多くの像があり、時間があればゆっくりと見たいものであった。また、橋の上では多くの絵画やみやげ物が売られていた。橋からのプラハ城の眺めも良かった。さらに、橋門塔を通り抜け旧市街広場に行った。ここからはティーン教会の80mの塔が見える。また、広場の一方の角には旧市庁舎の時計等が見え時間ごとにからくり人形が出てくる時計であった。しかし、からくり人形の出現があまりにも短時間であったので、詳しくは覚えていない。この日の夕食はボヘミアン舞踊を見ながら食事をした。お客はわれわれの団体とほかに10人程度の外人がいるだけであった。ここではワインを多く飲んだが、ワインを注ぐ人の注ぎ方が非常に珍しく、両脇に赤ワインと白ワインの容器を抱え、容器はピペットの形に似ており、ピペットの膨らんでいる部分が1リットルほど入るようなもので先端を両手の人差し指で押さえ、注ぐときはワイングラスの口に近いところで人差し指を少し開け徐々にグラスから注ぎ口を離して行き一杯になる間際にグラスに近づけるというやり方で注いでいた。非常に巧みに注いでいたので何度も注いでもらいたいためついつい多く飲んでしまった。ここではチップを要求しない代わりにものを販売してきたので、人形を購入した。その後、ホテルデュオに帰り宿泊した。

  

モーニングコール5時半荷物を廊下に6時半、6時半朝食、出発7時45分であった。今朝はドレスデンに向かって出発した。エルベ川沿いに行った。マイセン陶器工場に行く前に時間があったのでマイセンの町を散策した。小さな小綺麗な町であった。マルクト広場での聖母教会が見え。アルブレヒト城の大聖堂の塔が道から眺められた。それからマイセン陶器工場に行き、まず製作工程の見学をし、それから博物館や即売所を回った。製作工程は興味はあったが特に感銘を受けるようなものは感じられなかった。むしろ、あれほどまでに世界に愛されており高価なのはなぜなのか理解できなかった。それから、ドレスデンに行き、半日市内観光をした。ドレスデンはエルベ川をはさんでおり、ここでエルベ川は大きく蛇行している。建物は見るからに古い堂々とした建築物が多く目に入った。ここでは徒歩で見学をした。ほとんどが、外観の見学で、劇場広場から始まる。この広場の周りにはゼンバーオペラ、ツヴィンガー宮殿、ホーフ教会、ドレスデン城とウスマン塔などがある。これからアウグストゥス橋のそばを通り、商店街のようなところを通ってドレスデン城の中庭に入り厩舎庭を見学し、●外壁に描かれている長廊の行列を見学し、ホーフ教会の中を見学した。中は白亜と黄金で飾られた優美で荘厳な礼拝堂であった。さらに、ツヴィンガー宮殿の中庭を見学した。今日はエス・イー・エスエアーポートに宿泊した。

7月28日()はモーニングコール6時半、朝食6時半、荷物を廊下に7時半、出発8時半で、ポツダムに向かって出発した。11時半頃サンスーシ宮に着き庭園およびソーンスシィー宮殿の外側を見学した。非常に広い庭園で、道端には花が多く植え付けてあり、散策には良いところのように思えた。それから、●ツェツィーリエンホーフ宮殿に行った。

 

ここはハーフェル川のそばにあり、第2次世界大戦のポツダム協定が結ばれたところであり、このなかにはそれぞれに関係のあるアメリカ、ソ連などの大統領、首相の執事室などがあり、これらを見学した。ここは、宮殿としてはつつましい小さい建築物であった。昼食は近くの川のほとりのレストランで取った。その後、ニコライ教会、シュロス宮殿などを経て、ベルリンに行きベルリン市内半日観光を行った。市内観光では●勝利の塔、大聖堂ベルリーナー・ドームなどを経て、●ペルガモン博物館を見学した。これはトルコの都市ベルガマにあった城塞のふもとで発見されたもので、紀元前180年から160年のものが展示されており非常に大規模なもので、このように保存されていることに感激し、感心した。

さらにフランス聖堂 、次いで、●ベルリンの壁を見学した。壁は200メートルほど残っていた。ベルリンの壁については当事者ではないので、ここで多くの尊い犠牲者をだしたことは分かるが、特に強い感銘を受けることにはならなかった。バスでさらにテレビ塔フェルンゼー・トゥルム、勝利の女神ヴィクトリア像(黄金のエルゼ嬢:俗称)、工事中の凱旋門ブランデンブルガー・トーアなどを観光し、ベルリン近郊のダールウイッツにあるホッペンガーディアンに宿泊した。

 

7月29日(月)モーニングコール6時半、朝食6時半、荷物を廊下に7時半で出発は8時15分であった。いよいよ、日本に帰る日になり、忙しいスケデジュールでもあったので、ほっとした感もあったが、一方、もう少し滞在したいと言う気持ちも心の片隅にあった。しかし、感慨にふける間もなく、あわただしく帰国準備をして、非常に天気もよく、すがすがしい中バスでベルリンのテーゲル空港に着き、11時10分にウイーンに向けて出発、12時30分にウイーンに着き、乗り継いで13時45分に日本に向けて出発。

 

飛行機は北に向かいバルト海からロシアの北極海側を飛行し、北京の方向に南に飛行し佐渡のあたりに南下し、関空に帰ってきた。この間、機内の座席が進行方向に対して左の窓際であったので、目を覚ましているときはほとんど機外を眺めていたが、太陽は沈むことはなかった。そして、常に左側から太陽の光がさしてきていた。貴重な体験をした。また、今回の旅行における飛行機において、12年前のヨーロッパ旅行の時と同じく、機体のゆれはなく非常に快適な飛行であった。また、天気においても快晴の日が多く、ほとんど、雨にはあわず、本当に恵まれた旅行であった。

7月30日(火)7時55分に関空に着く。機外に出たとたん非常に蒸し暑く風呂にでも入ろうとしているような感じをもった。  

                              

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